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「ONE PIECE FILM RED」が評価に値しない映画である理由

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この記事は「ONE PIECE FILM RED」に対する批判記事です。

自分の好きな作品を批判されると不愉快な気持ちになる人は、この先読み進めないことをお勧めします。

このブログの読者さん達から「FILM RED」の感想を求めていただくことが多かったので、1月25日、終映ギリギリのタイミングでようやく観にいってきました。

言葉選びが非常に難しいのですが、私の中では「評価するに値しない作品」でした。

というのも、この映画は「ワンピース」である必要がなく、「ワンピースらしさ」もほとんどなく、「ワンピース映画」としての魅力もなく、多くのワンピースファンが「ワンピース映画」に求めている(であろう)要素もほとんどない、ただただ音楽業界のプロフェッショナル達が作った楽曲とAdoさんの歌声が素晴らしく、それを「ウタ」というオリジナルキャラクターを通して披露するためだけの映画であり、それ以上でもそれ以下でもなかったからです。

ウタを「シャンクスの娘」として登場させる必要もなければ、「ルフィの幼馴染」として登場させる必要もない。

原作(特に古参)ファンからすれば到底受け入れられないような「取ってつけただけの愛のない後付け設定」のオンパレードで、納得しうる理由や設定の作り込みもありません。

「シャンクスの娘」や「ルフィの幼馴染」なんて(興行収入を釣り上げるためだけの)雑な後付け設定などせずに、音楽をテーマにした「FILM UTA」として制作・公開していれば、こんなに賛否両論に分かれることなく、一般客や一般ファンからも受け入れられる作品になっただろうにと思います。単純に「音楽」については素晴らしかったので。

まぁそれだと興行収入200億円に迫る結果にはならなかったでしょうから、結局のところ「シャンクス」の名前と「RED」というタイトル、「シャンクスの娘」や「ルフィの幼馴染」という宣伝文句に頼ったことが、今回の興行収入に至るには必要なことだったのだと思います。

その意味で、仮に制作陣が「ワンピースで興行収入100億円を超える大ヒット映画を作る」という数字的な目標を掲げ、それを達成することを第一優先に考えたのだとすれば、このやり方は(商業的には)一つの「正解」だと思いますし、実際に興行収入200億に迫る結果を見れば、一定の成功を果たしたと言えるでしょう。

なので「狙い通りの結果を出せてよかったですね」「数字だけは大ヒット映画を作れてよかったですね」という言葉を贈ることはできます。

しかし1ワンピースファンとしてこの映画を観た感想としては、評価できるのは「楽曲」と「Adoさんの歌声」(と「声優さん達の演技」)だけで、ストーリーも脚本も構成も評価できる点はほとんどなく、ただ興行収入のためだけに「シャンクス」の名前を利用し、「ルフィとシャンクスの過去」を改編し、「ウタ」という異物を強引にねじ込んだ、商業主義の奴隷のような作品という感想です。

「自分の好きなキャラクター達が動いてしゃべってくれればそれだけで興奮できるファン」なら楽しめるでしょうが、一般的な「劇場版アニメ作品」として、それも国内歴代興収トップ10に入る大ヒット作品としてストーリーの面白さや奥深さ、壮大さなどを期待する人にとっては、内容が薄っぺらすぎて全く感情移入できずに終わるのではないかと思います。

なぜなら、ほとんどのキャラクター達に「その場にいる必要性」がなく、「ほぼ全員が蚊帳の外」で、ストーリーも脚本も何も描いていないに等しいくらい薄っぺらで空っぽな上、ツッコミどころ満載の内容だったからです。

作画のクオリティも「並」でしかなく、(シャンクスの登場シーン以外は)劇場版としての特別感はほとんど感じられませんでした。(何より冒頭シーンのモブ達がめちゃめちゃ手抜き作画のため、初っ端から一気に劇場版としての期待感が薄れました。最初の数分くらいきちんと作り込めばいいのに…)

誤解を与えないよう先に伝えておきますと、私はワンピースに限らず、原作漫画のあるアニメ映画は、完全に「パラレルワールド」として切り離した「お祭り作品」と受け取っているため、何を描いてもいいと思っている派です。

仮に原作とリンクする内容だったとしても、正式に原作に登場してこない限りは無視できるので、「シャンクスの娘」や「ルフィの幼馴染」という設定が追加されても、そこまで気になりません。(受け入れられないのであれば、映画を見ないか自分の中でなかったものとして処理すれば済むからです)

そのため「自分の好きなキャラが動いてしゃべってくれればそれだけで興奮できるファン」向けのお祭り作品を作ること自体は否定しませんし、特典を乱発することで興行収入を釣り上げる手法も(そのために何度も都合よくお金を吸い上げられるファンには同情しますが)個々がそれに納得して課金しているのであれば問題ないと思っています。

自分はそうした作品を観たいとは思いませんし、そうした商法をとると一般顧客の信頼を失ってブランドを傷つけ、将来の売上を失い、作品の寿命を縮めるだけだと思っているので全く歓迎はしませんが、それを観たいと思うファンがいて、実際にビジネスとして成立しているのであれば、そうした映画を制作すること自体を批判するつもりもありません。

実際、興行収入197億円という結果は、数字だけ見れば「ビジネス的には」成功したといえるでしょう。

ただ、今回の「FILM RED」を1つの映画作品として見た場合は、単純に「シャンクスの娘」や「ルフィの幼馴染」という後付けがあまりにも「取ってつけただけの雑な追加設定」にしかなっておらず、ストーリーも脚本も空っぽで、ワンピース愛を感じる要素などほとんどなく、作品の作り込みやクオリティ的に全く評価できる作品ではなかったため、「評価するに値しない作品」だと感じた次第です。

言い過ぎだと思うでしょうか。

以下、そう思った理由を細かく指摘していきます。

※この時点で「文句言うなら観るな」「自分じゃ作れないくせに偉そうなこと言うな」「子供向けアニメに文句いって恥ずかしくないんですか?」「批判のためにこんな長文記事を書いて人生の無駄だと思わないんですか?」といった感想が浮かんだ方は、ブラウザを閉じるか、以下の記事を先に読まれることをおすすめします。

非公開: 【ワンピース】「嫌なら読むな」は最も無価値で有害な主張である理由

※以下の記事は、劇場で1回観賞した記憶と公式情報をもとにしているため、記憶違いや見落とし、誤解釈が発生している可能性があります。あらかじめご了承ください。(Amazonプライムビデオで配信されたら、事実確認し、修正を加えていきます)

(アフィリエイト広告を利用しています)

1.ワンピース映画である必要がない

キャラがただ動いてしゃべっているだけ

今回の映画を観て、“麦わらの一味”がそれぞれ具体的に何をしたのか、どんな想いや考えをもって「FILM RED」という舞台の中で「ストーリー」を紡ぎ、「ドラマ」を作ることに貢献したのか、どのようにして「その舞台にいる意味」が描かれたのか、説明できる人はいるでしょうか。

私の印象は以下の通りです。

  • ジンベエ:記憶になし
  • ブルック:ウタが「世界で最も愛される歌姫」であることの説明(音楽家・ソウルキングの立場からの権威づけ)と、ウタの能力によって拘束された一味の解放
  • フランキー:記憶になし
  • ロビン:トットムジカについて調べる
  • チョッパー:いた?
  • サンジ:「ネズキノコ」の説明
  • ウソップ:(見聞色の覇気のおかげ?で)現実世界のヤソップと通じ合い、魔王を倒すためにウタワールドの面々に指示を出す
  • ナミ:何かした?
  • ゾロ:何かした?
  • ルフィ:ウタの掲げる「新時代」を否定し、ウタの暴走を止め、ウタの命を救おうとする

主人公のルフィは当然役割を与えられていますが、その他、“麦わらの一味”で「FILM RED」の「ストーリー」に必要だったのはロビンとウソップくらいで、他はいなくても物語は成立してしまいます。(ブルックもギリギリ必要だったと言えますが、いなくても成立はさせられました)

事実、ルフィ、ロビン、ウソップ以外は「動いてしゃべってただけ」でほとんど何もしていません。

だから「麦わらの一味」に対する愛のない作品だなと思うと同時に、ただ「好きなキャラが大画面で動いてしゃべってくれればストーリーや脚本が空っぽでも興奮できるファン」向けの作品にしかなっていないな、と感じたわけです。

こういうと、「何言ってんだこいつwww ゾロ、サンジ含め“麦わらの一味”がいなければトットムジカへの同時攻撃ができず、ウタワールドから脱出できなかっただろ。ほんとに映画観たのか?」というコメントがきそうですが、「それが“麦わらの一味”でなければならない理由」が描かれていない以上、別にゾロじゃなくてもいいし、サンジじゃなくてもいいということになり、「“麦わらの一味”である必要がない」ということになるわけです。

もっといえば、ローやバルトロメオ、ベポ、ビッグ・マム海賊団などの存在も不要で、何のために登場させたのかもわからないレベルで物語への関わりがありません。

「人気キャラだから出した」「お祭り感を出すためにとりあえずいろんなキャラを登場させた」という制作者側の意図が透けて見えてしまうくらい、存在理由のない空気のようなキャラばかりで、「その程度の役回りなら“麦わらの一味”の誰かにやらせればよかったでしょ」と思ってしまいました。

“麦わらの一味”の視点で、この映画のストーリーやキャラクターの心の動きを語れる人がどれだけいるでしょうか。

ゾロやサンジが、ウタに対してどのような感情を持っていたのか、説明できる人はいるのでしょうか。

いるはずがありません。だって描かれていないんですから。

  • ウタが主人公の映画なんだから当たり前でしょ。
  • 別に“麦わらの一味”視点で語れるストーリーにする必要ないでしょ。
  • 一味全員に見せ場を作る必要もないでしょ。

と思う方もいるかもしれませんが、それはつまり「ウタのために“麦わらの一味”をモブ扱いしてもよい」ということであり、「ルフィとウタとその他大勢の愉快な味方達」の「その他大勢」に“麦わらの一味”を加えることを許容するということです。

それで問題ないと考える人もいるでしょうし、

  • 「“麦わらの一味”視点の映画は過去に散々やってきてるから、今回はあえて変えたんでしょ」とか、
  • 「そもそも一味の人数が多いんだから、全員にスポットライトを当てるなんて不可能でしょ」

と考える人もいると思います。

私が言いたいのは「一味全員にスポットライトを当てて欲しい」ということではなく、「一味全員を、きちんとその場にいる意味のある“1人の人間”として描いて欲しい」ということです。「そこにいるのが誰であっても変わりない(問題ない)」という描き方ではモブと変わらず、一味をモブ化してしまうと、それはワンピース作品である必要がない、ということにつながってしまうからです。

私は(劇場版においても)ルフィの冒険に仲間達の存在は必須であり、“麦わらの一味”としての冒険や物語を期待している人間なので、そこにウタという「幼馴染」が登場するならば、「ルフィ1人」ではなく「麦わらの一味」として接してほしかったし、スポットを当てて欲しかった。

たとえばアラバスタで「兄」のエースと対面した時は、「ルフィとエースの対面」ではなく、きちんと「“麦わらの一味”とエースの対面」として描かれました。その後「頂上戦争」へエースを救いに行く際はルフィ1人で行くことになりましたが、そこには仲間と一緒ではなかった理由があり、ドラマがありました。

そしてエースが死んだことを知った一味は、全員がルフィを想い、ルフィの力になるために2年間の修行をすることを決意しました。

これはルフィにとってエースがどれほど大切な存在だったかを一味全員が理解していたからこそ、そしてそれを読者が共感できる形で描いてくれていたからこそ、感動的なシーンになったわけです。

しかし「FILM RED」では、同じ場所に“麦わらの一味”がいるのに(“麦わらの一味”としてライブに足を運んだというのに)、なぜか全員蚊帳の外で、ルフィにとって関心の対象にすらなっておらず、何のためにその場にいるのかわからない描き方しかされていません。

ルフィにとって仲間は一番大事な存在のはずなのに、ほとんど放置したまま絡むことなく、なぜかローやバルトロメオとの薄っぺらい絡みや退屈な茶番をメインで見せられるばかりなのです。

ルフィが一味と会話したシーンが全く記憶に残っておらず、「誰と会話したっけ?」というレベルで思い出せません。(原作のほうでも、いつの間にか“麦わらの一味”中心の冒険ではなく、ルフィが「その他大勢の味方キャラ達」と薄っぺらい絡みをするだけの作品になってしまいました)

その結果、「ウタはルフィの“幼馴染”であり、ルフィにとって大切な人間だから、そんなウタを助けるために一味が立ち上がる(ルフィに力を貸す)」という見え方にさえなっておらず、事情はよくわからないけど、その場にいたら勝手に巻き込まれ、このままだと“ウタワールド”から永遠に出られなくなるらしいからなんとかしよう」と、まるで感情のないロボットのように機械的に立ち向かって行っただけでした。

最初から最後までルフィ1人がウタと向き合っているだけで、“麦わらの一味”はずっと蚊帳の外のまま。「一味がルフィとウタの関係性(の深さ)を理解するシーン」も、「ウタと一味の関係性が深まるシーン」も描かれていないため、“麦わらの一味”がトットムジカに立ち向かうシーンに、いまひとつ感情移入ができないわけです。

もっと言えば、ルフィ以外に「感情」が描かれたのは、ウタ、シャンクス、ゴードンくらいで、その他のキャラはほぼ全員が「ただそこにいただけ」なので、まるで感情移入ができません。

「そいつらが主役の映画なんだからそれでいいだろう」と考える人もいるでしょうが、主要人物以外に感情移入ができない作品というのは、つまり「舞台設定がいい加減でリアリティがない」ということです。舞台設定にリアリティがあれば、モブキャラに対してでも感情移入はできるのです。

FILM REDでは、舞台設定のリアリティが皆無で、たとえば冒頭で描かれた「海賊に苦しめられる民衆」も「ライブ会場にいた観客達」もただの記号的役割として描かれたモブでしかないため、感情移入が一切できません。

さらに問題なのは、これほど舞台設定を雑に済ませておきながら、上記の主要人物でさえ、感情移入できないくらい薄っぺらくしか描けていないことです。

他の名のあるキャラ達を大量にモブ化しておいて、主要キャラにさえ説得力や深みを持たせられず、楽曲披露のシーン以外ほとんど何も描かれていない空っぽの作品が「FILM RED」です。

だから「ウタ(Ado)のMV映画のようだ」と揶揄されるわけです。

これでは「ワンピース」である必要性がなく、「ワンピースらしさ」もほとんどなく、「ワンピース映画」としての魅力もなく、多くのワンピースファンが「ワンピース映画」に求めている(であろう)要素もほとんどない、という評価になっても仕方ありません。キャラクター達がほぼ全員死んでいるんですから。

ウタの頭が悪すぎて感情移入できない

では、「麦わらの一味」を犠牲にする(モブ化する)ことで描かれた、本作の主役であるウタは何をしたのかというと、以下の通りです。

  • 「歌を通じて世界中の人を幸せにしたい」という想いから、初ライブを開催して歌声を披露する。
  • しかしその「幸せ」とは、「ウタウタの実」の能力によってみんなを幻想世界(ウタワールド)へ閉じ込めることだったため、誰も賛同してくれず、抵抗されてしまう。
  • それに逆上して抵抗勢力を押さえつけ、幻想世界で生きることの「楽しさ」と、それが「新時代」であることを説き続け、説得を試みるも、同調してくれる人間は誰一人おらず笑
  • 失意の中、現実世界で気を失ったルフィを殺そうとしたところ(なぜ殺す必要があるのか意味不明)シャンクスに止められ、その再会に涙する。
  • 最終的にルフィ達の活躍によってウタワールドが破られ、みんなが現実世界に舞い戻った中、ネズキノコの毒によって力尽きる。(作中では生死不明)

一言でまとめると

「自分の歌声(能力)で世界中の人々を幻想世界に引き込めば、みんな苦しみから逃れて楽しい毎日を生きられるようになる(それが「新時代」である)と考え、ライブを開いてみたものの、誰からも賛同を得られず、全員から抵抗されて失敗した」

のがウタです。

自分が眠るとウタワールドは消えてしまう(ウタワールドの維持には相当な体力を消耗し、すぐ眠くなってしまう)ため、「ネズキノコ」を食べて眠らないようにしつつ、その毒によって命を落とすことで、世界中の人々を永遠に「ウタワールド」に閉じ込めようとしたものの、誰からも賛同されずに大スベりして終わった、頭の悪い哀れな少女です。

ちょっと考えれば誰からも理解・共感されないことくらい分かりそうなものですが、そんなとんちんかんな計画を、わざわざ自分の命を捨ててまで実行しようとするんですから、そのバカさ加減が際立ちすぎて、全く感情移入ができません。

「辛い現実から逃げたい」「ずっとウタの歌を聴いていたい」というファンのみんな(実際はごく一部)の声を聞いて、なぜ「辛いことや悲しいことが一切無い幻想世界」に永遠に閉じ込める(そうすればみんな救われる)、という結論に至るのか全く理解できない。

その上、「ウタは肉体の消滅を死とは考えていない」というご都合主義にまみれた詭弁によって、「自殺や大量殺戮をしているわけではない」という苦しい言い訳を加えるのです。

このウタの感情や思考回路、結論に共感・感情移入できた人っているのでしょうか。

自分の歌声に誇りを持っているのであれば、「悪魔の実」の能力に頼ったまやかしの幸せなどではなく、自分の歌声そのものでより多くの人々を幸せにすることや、辛い現実から救い出す方法を考えそうなものです。

プロのアーティスト(それこそAdoさん)に、「ウタウタの実」の能力は欲しいですか? と聞いたら、間違いなく「いらない(使わない)」と答えるでしょう。それくらい、「歌」の持つ力を根本から否定するような意味のわからない能力です。

「世界の歌姫」という設定なのに、なぜか「悪魔の実」の能力に頼りきった計画を思いつき、実行に移してしまう。

この時点でウタのアイデンティティに筋が通っておらず、歌い手としての誇りも矜持もない、「世界の歌姫」と呼ばれる器ではないことがよくわかります。ただ「世界で最も愛される歌手」という言葉で「説明」しているだけで、見ている側が納得できるような、説得力のある描き方がなされていません。

私が一番よくわからなかったのは、ウタの中でのシャンクスに対する評価や心情と、それがウタの「新時代」づくりにどこまで影響を与えたのか、という点です。

ウタがシャンクスに捨てられたことを恨んでおり、シャンクスへの復讐のため、シャンクスを呼び寄せるために「ウタウタの実」の能力によって世界の滅亡を企んだ、というのであればまだ理解できます。

しかし実際は、幼少期こそシャンクスを恨んでいたものの、それは自分の勘違いで、実はシャンクスは自分を「世界の歌姫」にするために「エレジア崩壊」の全ての罪を背負い、何も言わずに悪者になる道を選んで自分を守ってくれていたという事実を、ライブ開催前の時点ですでに知っていたわけです。

であれば、「世界の歌姫」となった今、是が非でもシャンクスと再会して成長した姿を見せるとともに、当時のことを謝り、感謝の言葉を述べたいと思うのが普通の感覚ではないでしょうか。

初見時は、なぜウタが「自分が死んでみんなをウタワールドに永遠に閉じ込める」という結論に至ったのかまるで理解できませんでした。

この点について、尾田先生は「CHRONICLE  OF UTA」にて、ウタの抱える「2面性」から説明をしています。

要約すると、

  • シャンクス達を恨み続け、ファン達に「海賊嫌い」を公言してきたことで、すっかり「民衆の代弁者」「清く正しい歌姫」「みんなの希望」となってしまったため、「海賊なんて大嫌い!!」という「表の顔」をファン達に見せ続けなければならない一方、
  • 「自分には海賊を嫌う資格すらない」ことを知り、「シャンクスに会いたい!!」という想い(「裏の顔」)を抱えるようになってしまったため、その「2面性」に苦しんでいた

ということです。

つまり、「自分には海賊を嫌う資格すらない」ことを知ったことで、これまでのように「海賊嫌い」の立場としてファンの前で歌うことができなくなってしまった。しかしファン達からは日々海賊から苦しめられる辛い現実の話や、それが自分の歌によって救われているという言葉が届き、ファン達のために「海賊嫌い」の立場として歌い続けなければならない状況に苦しんでいた、ということでしょう。

この板挟みによる苦悩はわからなくもありませんし、エレジアを壊滅させたのは自分自身だったことを知ったショックと、大好きだったシャンクスのことを信じられず、勘違いで恨み続けてきたことへの自己嫌悪に苦しみ、精神的に追い詰められ、逃げ出したくなるという心情もわかります。

しかし「その苦しみから逃げたい・救われたい(同時に、苦しい現実を生きるみんなのことも救ってあげたい)」という想いから、現実を忘れられる「ウタワールド」に永遠に閉じ込めるという結論に至るのは、全く意味がわかりません。

まず、なぜ「海賊嫌い」の「表の顔」を失ってはいけないのか、という点です。ワンピースの世界の「悩み」や「苦しみ」って、全てが海賊によってのみ与えられるもので、ウタのファン達はみんな海賊から受ける苦しみのみを抱えていて、ウタが「海賊嫌い」を掲げていたからファンになっただけで、「海賊嫌い」の看板を降ろしたら急速なファン離れを起こして、失望の声が広がる世界線なのでしょうか?

「これまでは海賊を嫌っていたし、みんなが海賊に苦しめられている現実を知っているから、そうした海賊は今でも大嫌いだけど、実は(シャンクス達のように)心優しくてかっこいい海賊もいる」という立場をとってはいけない理由が全くわかりませんでした。

もちろん公に海賊を肯定する発言などすべきではないので、ファン達にそれを伝える必要はありません。しかし「ファン達が嫌っている海賊を嫌うこと」と「シャンクス達を嫌わないこと」は矛盾しない(両立できる)のだから、自分の心の中できちんと棲み分けをすれば「2面性」に苦しむことにはならないと思うわけです。

「世の中には最低な海賊もいるけど、シャンクス達はそうではなかった」と自分の中で理解できればそれでいいわけで、なぜ「海賊」という言葉で一括りにして、「海賊は(ウタにとって)善か悪か」の二元論で考えなければならないのでしょうか。そうして勝手に「2面性」を生み出して苦しんだ結果、世界を滅亡させるという結論に至るのです笑

また、そもそもウタはエレジアの自室から映像電伝虫による配信を通して有名になった歌手という設定であり、世界中のメディアから引っ張りだこで連日「海賊嫌い」の顔をメディアを通して報道されている(ないし発信しなければならない)立場でも、業界の権力やしがらみから「表の顔」を発信をし続けなければならない立場でもないのに、なぜ普通に「(心の整理をつけるために)活動休止してシャンクスに会いに行く」という選択をとれないのか、という点も疑問です。

もちろん、今や自分は「民衆の代弁者」であり、みんなが自分の歌を求めてくれていて、辛い現実を生きる人達の救いとなっている以上、活動を止めるわけにはいかない、という正義感なり使命感なりがあったのでしょう。

それならむしろ、「海賊嫌い」の看板がどうとか考えずに、「世界の歌姫」らしく、まっさらな歌の力で勝負するべきであり、「悪魔の実」の能力に頼った計画を立てててしまっては、「自分の歌声で世界を救う」ことにならないじゃないですか。「それでいい」と考えたウタに全く共感ができないわけです。

もっと言えば、自分の歌声で(トットムジカを呼び起こし)エレジアを滅ぼしてしまったという真実を知ったら、「海賊を嫌う資格なんてない」と考えるよりも、むしろ「自分には歌を歌う資格なんてない」という結論に至りそうなものです。(自分が歌ったことでたくさん人を殺して国を一つ崩壊させたのだから、歌うことへのトラウマを抱えてしまう方がよっぽど心情としては理解できます)

自分が大量虐殺者であった真実を知り、「海賊を嫌う資格なんてない」と気づいた結果、再び(幻想世界に閉じ込める形で)大量殺人を繰り返すという結論に至るんですから、もう頭が悪すぎてついていけません。

「ウタは肉体の消滅を死とは考えていない」という詭弁を加えることでなんとか体裁を整えているものの、その結論に至ることにあまりにもリアリティがなさすぎるため、制作側の都合や作為しか感じないわけです。

尾田先生は、“「死ぬ」じゃない「逃げる」で筋が通るかなーと思います”と書いていますが、これでは無理やり筋を通すための「言い訳」にしかなっておらず、描いていることに説得力を持たせる言い分になっていません。

なぜなら(ファン達を巻き込んで幻想世界へ)「逃げる」という結論に至るほどの「苦悩」を、観客が共感できるように描けていないからです。

「いや、普通にシャンクス達に会いに行って謝罪すればよくね?(それをファンに伝えるかどうかは別として、まずはそこからじゃね?)」と思いませんかね。

どこに世界中を道連れにして幻想世界に逃げ込まなければならないほどの、八方塞がりで逃げ道のない苦悩があったのか、まるで理解できませんでした。

実際、ファン達は誰一人ウタの計画に賛同してくれず、全員から猛反対されるわけです。せめてこの中にウタの信奉者が一定数いて、一部の人達の心を掴めていた、それが救いの道として歓迎された、となれば、ウタの計画にも一定の正義や救いがあったのだとフォローできるのですが、全員から反対されて失敗に終わるんですからもう笑い話でしかないでしょう。

まぁ、このウタの心情や行動に共感できる人がいて、映画を観て感動できたのであればそれはそれでいいのですが、さすがに「わかりづらすぎね?」と思ってしまいました。

「子供向き」の映画なら、もっと動機や心情をシンプルにわかりやすく描けばいいのに。

物語のキーパーソンであり、ストーリーの骨格となるウタの目的や思考にリアリティや説得力がなく、共感できる要素がほぼ皆無のため、映画の土台作りから失敗していると言わざるを得ません。

以下、ウタの行動についてまとめておきます。

  1. 「世界の歌姫」として「歌の力」で世界を変えると言っておきながら、“悪魔の実”の「能力」に頼りきった「新時代」を作ろうとする。
  2. しかも作ろうとしているのは「別世界」であって「新時代」でも何でもない(言葉の意味を間違えている)
  3. 自分で一般人を巻き込み操って海軍に対抗しておきながら、一般人が負傷したら絶叫して混乱し出す。(お前のせいだろ)
  4. シャンクスへの誤解が解けた後、なぜか謝罪やお礼の言葉を伝えに行くことよりも、命を捨てて幻想世界に逃げ込むという結論に至る。(その選択をすることに納得できるだけの「絶望感」「八方塞がり感」は皆無)
  5. ウタの選択は「自殺」ではなく「逃避」、「肉体の消滅を死とは考えていない」という詭弁によって、再び大量殺戮を繰り返そうとする。

これだけツッコミどころがあり、言動に一貫性がなく筋の通っていない矛盾だらけの厨二病キャラに、どうやって共感・感情移入ができるのか不思議でなりません。

特に1がひどい。この時点でウタのアイデンティティや物語の土台が破綻しているといっても過言ではありません。

「世界の歌姫」が自分の「歌の力」を信じられずに「悪魔の実」の「能力」に頼る、というのが物語の筋になっているのですから。

2.原作に泥を塗る後付けや改変

「シャンクスの娘」で「ルフィの幼馴染」

これが今回の映画の全ての元凶でしょう。「シャンクスの娘」で「ルフィの幼馴染」という、原作にただ泥を塗るだけの、誰も求めていない無意味な後付け設定の追加。

「設定上の矛盾」はないとしても、100%後付け・改変であることが決まっているというのに、何で完璧な「第1話」に泥を塗るようなアイデアを追加してしまうのか不思議でなりません。

これって尾田先生が、「次の映画は(伝説のジジイではなく)女の子を描きたいから、シャンクスの娘を登場させます」と言って作られたんでしたっけ?

それとも監督や脚本家から「シャンクスの娘(ルフィの幼馴染)を登場させて『FILM  RED』というタイトルの映画を作るのはどうですか?」という提案を受けたことが始まりでしたっけ?

この辺り、おそらく公式情報や取材記事などで語られていると思うのですが、調べる気にもならないので、もし知っている方がいたら教えてください笑

尾田先生発案なのであればまだ「仕方ない」と思えますが、仮に制作側が提案したのだとしたら、ただ数字上のヒット作を作ることだけに目を奪われたワンピース愛のない(原作を商業コンテンツとしてしか見ていない)人達なんだろうなと思ってしまいます。

原作にきちんと感情移入しながら読み込んできた読者であれば、そんな設定をぶち込もうなんて考えもしませんし、思い付いたとしても、まず却下するはずだからです。

まぁいずれにせよ尾田先生や編集部がそれをアリと判断した以上、制作側に文句をつけるのも筋違いではありますが。

もはや尾田先生も編集部も「ワンピースの何が評価され、何が人気の根源だったのか」を正しく見極められなくなっているか、「映画はパラレルだから(大幅な矛盾がなければ)自由にやってもらって構わない」というスタンスでいるかのいずれかでしょう。

時代にそぐわないファッション

ウタのキャラデザは「今風の可愛い女の子キャラ」のデザインとしてはよいと思いますし、これまでの女性キャラともカブらないデザインでさすが尾田先生とも思います。

しかしそれは、あくまで現実世界の「令和」という時代において「イケてる(あるいは許容できる)デザイン」なのであって、「大航海時代」が舞台であるワンピースの世界においてはもちろん、メタ的にいえば連載当時、25年前の平成初期に描かれた「田舎の港村」にいる女の子のファッションとしてはどう考えても不自然で、当時の作風や世界観を壊す存在にしかなっていません。当然のようにヘッドホンをつけているのも時代感が違いすぎて違和感しかない。

“偉大なる航路”は「何でもアリ」の海なので、海を進むほど技術革新が進んでいたり、「大航海時代」とはかけ離れた(現実世界における現代のような)技術やキャラクターが出てきたりしてもまだ受け入れられます。

しかし、まだそうした「何でもアリ」の設定として描かれていなかった「東の海」の田舎町にまでそれを持ち込んでしまうと、違和感が強すぎてスッと入ってこないわけです。

もちろん、ウタは「新世界」でシャンクス達と出会い、育てられたと考えれば、今風のファッションやヘッドホンをしていてもおかしくない(整合性は取れる)とも言えますが、それは「現代から遡って後付けをしたら成立させられる」というだけであって、第1話連載当時において、「実はこの話より前に、ヘッドホンをつけたツートンカラーの髪をした“シャンクスの娘”で“ルフィの幼馴染”のウタという女の子がいた」という説明を加えてしまったら、ワンピースの世界観ぶち壊す要素でしかなく、これまで描いてきたことはなんだったんだ、となってしまいます。

こういう点に、制作陣の誰もツッコミを入れたり違和感を唱えてストップさせたりしないのでしょうか。。

ワンピースの世界観やこれまで描いてきたことを壊すことのないよう、強い意志とこだわりを持って「ウタをその世界に存在させる(命を与える)方法」を考え抜こうと思わなかったのでしょうか。「子供向け作品だからその辺りは適当でいい(それよりも興行収入を釣り上げるためのキャッチーな宣伝文句や設定のほうが大切だ)」という判断になったのですかね?

映画の予告編を見た時から、この「時代にそぐわない異質で浮きまくったビジュアル」への違和感と嫌悪感がすごかったのですが、映画を見ればその辺りも納得のいく説明があるのかなと思っていました。

ウタの髪色がツートンであることやヘッドホンをしていることにも何かしらの意味があり、そうなった理由や経緯などが説得力のある形で描かれるのかと思ったのです。だから映画を観る前にその点を批判することはしませんでした。

しかし観てみたらなんのことはありません。ただ(興行収入を伸ばすために)「人気の出そうな現代風の可愛い女の子」をデザインし、(興行収入を釣り上げるために)「シャンクスの娘」「ルフィの幼馴染」という客寄せ宣伝文句を用意しただけで、その「後付け」にファンが納得できるだけの作り込みやこだわりは一切ありませんでした。

生まれた時からツートンである点(出生)に何らかの説明があるのかと思えば何もない。「RED」というタイトルなのだから、ウタの髪色はシャンクスの「赤髪」と何か関係があるのかと思えば何もない。

たとえば元は白髪だったけど、シャンクスに憧れて半分を赤髪に染めたとか、シャンクスの本当の娘で、妻が白髪だったから半分ずつの髪色になった、といった設定があるわけでもなく、ただ「現代風のデザイン」にするためだけのツートンカラーだったわけです。

何のためにこんな、ルフィとシャンクスの過去にねじ込むには明らかに時代に合わない異質なデザインにしたのか理解に苦しみます。

フーシャ村からエレジアに簡単に行ける謎

ルフィの故郷であるフーシャ村に、ウタも含めた赤髪海賊団が停泊していて、あるときシャンクス達がエレジアへ行って帰ってきたらウタはいなくなっていたということは、エレジアは「東の海」のフーシャ村から行ける距離にあるということになります。

これが実現できるのは、以下のいずれかの場合のみです。

  • エレジアは「東の海」にある。
  • エレジアは「カームベルト」のどこかにある。
  • エレジアは「東の海」から南下もしくは北上したグランドライン「前半の海」にあり、赤髪海賊団はカームベルトを通って簡単にグランドラインに出入りできる術を持っている。
  • エレジアはグランドラインの「新世界」にあり、赤髪海賊団はカームベルトを通ったり、レッドラインを越えたりと、自由自在に世界を移動できる術を持っている。
  • エターナルポースを指針にして、寄り道せずに海を進めば、グランドラインは数週間程度で一周できる。(赤髪海賊団は双子岬からグランドライン入りして、エレジアを経由し、数週間程度で世界一周してフーシャ村へ戻った)

この点についても、「CHRONICLE  OF UTA」に説明がありました。

フーシャ村を拠点にしているだけで
遠くへ行く事は可能ですが
“赤い土の大陸”を越えない

“東の海” イーストブルー
“南の海” サウスブルー
偉大なる航路 グランドライン前半
カームベルト

このどこか

一応の整合性を取るために、(シャンクス達は)

  • フーシャ村を拠点にしているだけで遠くへ行く事は可能ですが “赤い土の大陸”を越えない
  • この(東の海、南の海、グランドライン前半、カームベルトの内の)どこか

ということにはしていたようです。

しかしいずれの場合も、「シャンクス達がフーシャ村に停泊していた頃にエレジアに行ける理由」の説明にはなっても、「今“新世界”にいるルフィ達がエレジアに居る(行ける)理由」の説明にはなりません。

映画用のオリジナルストーリーなので、原作のどのタイミングの設定なのかは無視してOKという体裁があるにせよ、「2年後」のビジュアルの時点で「新世界」に入った後の物語になりますし、ビッグ・マム海賊団との関係性を見れば「ホールケーキアイランド編」の後であることも明らかです。さらに最後のクライマックスシーンでは「ギア5」が登場するのですから、「ワノ国編」の後ということにもなってしまう。

まぁ「原作のどのタイミングなのか」については、そこまで細かく考える必要はない(お祭り作品として、タイミングを無視して“ギア5”を出して盛り上げる演出もOK)と思っていますが、しかし上記の設定を前提とすると、ルフィ達は「新世界」を逆走し、“赤い土の大陸”を通過して“偉大なる航路”の前半に戻ったか、カームベルトを通り、“東の海”か“南の海”まで戻ったことになってしまいます。

それが「幼馴染であるウタのライブを観に行く(ウタに会いたいから“偉大なる航路”の逆走も厭わない)」という設定であれば、100歩譲ってまだ許容できますが、誰のライブかも知らず、さして興味もないのに「新世界」を逆走し、“赤い土の大陸”を越えて「前半の海」まで戻ったことになると、その舞台設定の作り込みの雑さにツッコまざるを得ません。

この設定に納得、共感できるファンなどいるのでしょうか。

後付けした「過去」の設定については矛盾が起こらないようちゃんと考えたけど、「今」についてはどれだけ無理のある展開でも「映画だから問題ない」「子供向けだから大丈夫」と考えたってことなんですかね?

「新世界」から「前半の海」への逆走を前提とするのなら、最低限、ルフィがそうまでして観に行こうと思えるライブであることの理由付けが必要だと思うのは私だけでしょうか。

まだ「ビッグマム海賊団」やバルトロメオなどを出さず、「魚人島編」や「パンクハザード編」の直後なのかもしれない、と思わせる描き方であれば、“赤い土の大陸”を越えて「前半の海」に戻ったとしても許容できたかもしれません。

しかしホールケーキアイランドやワノ国付近(グランドライン後半)から「前半の海」まで戻るというのに、ルフィ自身がライブに大して関心がなく、幼馴染のウタのライブであることもわかっていないという描き方をしてしまっては、どう考えても違和感のほうが勝ってしまいます。

その辺りの、物語の基盤となる部分の作り込みの甘さ、説得力のなさを見るに、ただ興行収入のためにシャンクス・ルフィ・ウタの過去を都合よく後付けし、「お祭り感」のためだけに「物語上必要のないキャラクター」を大量に登場させたようにしか思えないわけです。

私が一番気になったのは、上記引用の中の尾田先生の「このどこか」という無責任な一筆です。

これを見て、あぁ、“原作・総合プロデューサー”という立場で関わっていても、結局のところ「自由に作ってもらって構いませんけど、この設定だけは守ってくださいね」という程度での監修しかしておらず、「後は(優秀な)制作陣にお任せします」というスタンスだから、こんな作り込みの甘い、クオリティの低い映画になってしまったのか…と思いました。

ただでさえ賛否両論が生まれることが確実な後付けの設定・物語を、「このどこか(であれば矛盾はないのでどこでもOK)」というスタンスで決めていたなんて…ワンピースの劣化が止まらないわけだ。

“偉大なる航路”が「一般人でも難なく航海できる安全な海」に改変

ルフィ達が“東の海”や“南の海”に戻ったと考えるのはさすがに無理があるので、エレジアは“偉大なる航路”の「前半の海」か「カームベルト」にあると仮定しましょう。

しかしそうすると、今度は「なぜあれだけ大量の一般人が普通にライブ会場に来れているのか」という新たな疑問が生まれます。

まず“偉大なる航路”は磁気異常をきたしていて羅針儀が使えない上、季節も天候もデタラメで簡単には航海できない「魔海」だったはずです。兵力五千の艦隊を率いるドン・クリークの船団がたった七日で壊滅に帰し、モンブラン・ノーランドが提督を務めた探検船も、にわか訓練の兵士達では乗り切れず、国王のいる自分の船をなんとか死守することで精一杯だった過酷な海です。

エレジアがそんな「魔海」にあったとしたら、一般客達はどうやってエレジアへたどり着くことができたのでしょうか。「カームベルト」となれば尚更一般人の参加など不可能でしょう。

エレジアへのエターナルポースが備え付けられ、有能な航海士が乗り、船底に“海楼石”が敷きつめられた大型客船をウタが手配していて、チケットを購入した全ての客達を島まで迎えに行ったのでしょうか?

あるいはエレジアには「海列車」が通っていて、海列車で移動できる島の人達だけが観客として訪れたのでしょうか?

そんな細かいことは「映画」だし「フィクション」だし「子供向けアニメ」だし「パラレル」だから気にしなくていいのでしょうか?

たとえば導入部分で、「超巨大送迎船」や「海列車」で凄まじい数の人達が続々とエレジアに到着してライブ会場に向かう様子を一瞬でも描いていれば、なぜ“偉大なる航路”の島にこれだけ多くの一般人が来れているのかを説明となるため、「ワンピース映画」としての舞台設定にリアリティや説得力を持たせることができました。

しかしそのあたりを「子供向けだから」「映画だから」という理由でお茶に濁し、ワンピースの世界設定を踏襲しない映画にしてしまっては、それは「ワンピース映画」である必要がないだろうと思ってしまいます。

能力者の死後も能力が解除されない謎理論

「悪魔の実」の能力についても、従来のルールにそぐわない何でもアリの設定がなされます。

「ウタウタの実」の能力について、

  • ウタワールドはウタが眠ると消えるが、一度ウタワールドに引き込まれた人間は自力で現実世界に戻ることはできない。
  • ウタが死亡するとウタワールドは完全に閉鎖され、取り込まれた人々の意識は二度と現実世界に戻れなくなる。

という設定がされているのですが、これ、あまりにも都合が良すぎると思いませんか?

これまでワンピースの世界のストーリーやドラマは、

  • 「悪魔の実」の能力による影響は、能力者が気を失うと解除される(シュガーの「ホビホビの実」)
  • 能力者が死ぬと、その能力は再び「悪魔の実」となってこの世に再生する。

という設定のもと描かれてきました。

「能力者が死んだら再び別の“悪魔の実”となって再生する」というルールから考えれば、「能力者が死んだらその能力は解除される」と考えるのが自然であり、実際にこれまでは全てその前提で描かれてきたはずです。

しかし「FILM RED」では、「能力者が眠ると能力は解除されるが、死ぬと永遠に能力は解除されない」という、クライマックスのピンチを作るためだけに考えられたような、「ご都合主義」の極みとも言える何でもアリの設定がなされています。

これに疑問を持たないワンピースファンなどいるんですかね。。

たとえば「ハンター×ハンター」の「念」のように、個人の生命エネルギーをコントロールすることによって開発した能力で、そこには恐怖、憎悪、覚悟などありとあらゆる心の動きが作用する、という設定であれば、「死後強まる念」という説明も理解できますし、説得力があります。

しかし「能力者が死んだら再び別の“悪魔の実”となって再生する」世界線で「死後も能力が継続する」というのは、どう考えても道理に合いません。

実は「ホビホビの実」もシュガーが眠ったら能力が解除される(シュガーは「悪魔の実」を食べて以降一度も眠っていない)という裏設定があり、シュガーが死んでいたらオモチャは一生オモシャのままだったということなのでしょうか。

ワンピースは「子供向きの作品」であり、子供達はそんな細かいこと気にしないからどうでもいいのでしょうか?

「偉大なる航路」の設定を無視して、「悪魔の実」の従来設定と矛盾する都合の良い能力を生み出し、「ルフィとシャンクスの過去」を書き換える。

これだけワンピースの重要設定を無視、あるいは改変して泥を塗るような内容にしてしまっては、「それワンピースでやる必要ある?」と感じる人が多いのも当然でしょう。

少なくとも、ワンピース作品として「作り込みがすごい」「完成度が高い」「原作愛にあふれている」という評価には絶対になりません。

だから「二次創作レベル」とか「音楽しか評価できない映画」と言われてしまうのです。

ウタの設定はどうすべきだったのか?

100歩譲って「シャンクスの娘」という設定はよしとしても、「ルフィの幼馴染」という設定は絶対に入れるべきではありませんでした。

なぜならその設定は、今回の映画において「客寄せ宣伝文句」としての機能以外、何ら意味をなしていないからです。

その上で「ルフィとシャンクスの過去の改変(異物のねじ込み)」というあまりにも大きな代償を払うことになります。

まだ原作であまり描かれてきていない(謎の多い)「シャンクス個人の過去」に関する後付けや改変であれば、既存の物語への影響は少なく、「そういうこともあったのだろう(あり得るだろう)」と受け入れられる余地がありますが、既にしっかりと描いてきた「ルフィの幼少期」や「シャンクスとの思い出」について、さらに余白を埋めるように新たな設定や人間関係を追加し、それが「ルフィとシャンクスの関係性」にまで及ぶような内容にしてしまっては、受け入れられないファンが多いのは当然でしょう。

私は「後付け」自体が悪だとは全く思っていません。後付けなしに長期連載を続けることなどそもそも不可能だからです。

しかしそれは、

  • (一応の)整合性が取れている。
  • その追加設定によって作品の厚みが増し、面白くなる。
  • その追加設定によって損をするキャラクターが出ない。

といった条件を満たしているべきだと思います。

3つ目は(後付けの性質上)なかなか難しい条件ではありますが、ワンピースはそれをうまく果たしてきたからこそ、(少なくとも前半の海までは)圧倒的な面白さにつながっていたわけです。

ウタについては、上記3つの内の1つ目しか満たしていません。それも最低限の整合性を表面的にとっているだけなので、違和感や不自然さを拭いきれていない作り込みの甘さです。

その上で、この後付けによって原作の厚みが増し、面白くなったとは到底言えず、ルフィとシャンクスは明確に損をしています。2人の関係性や過去に余計な雑音が追加されたわけですから。

その意味で、「後付け」とは「同じ世界線にずっと存在していたけど、これまで描いてこなかった部分」を補足する範囲に留めるべきで、「一度丁寧に描いた過去」に新たな人物を追加するようなことはすべきではないというのが私の考えです。

この点は長くなるので別記事にまとめようと思いますが、たとえば「シャボンディ諸島」で「11人の超新星」が描かれたのは、当時の編集者の助言(要望?)がきっかけだったというのは有名な話です。

これもある種の「後付け」ですが、「東の海」から“麦わらの一味”が“偉大なる航路”入りし、1つの航路を選んでシャボンディ諸島まで到達したのであれば、他の海から“偉大なる航路”入りした海賊や、他の航路を選んでシャボンディ諸島まで到達した海賊達が他にもいたことは自然であり、「同じ世界線にずっと存在していたけどこれまで描いてこなかった部分」です。

そこを描くことは物語に厚みを増す補助線になるため、上記3つの条件を全て満たす「後付け」と言えます。

同様に、過去の劇場版で登場した「Z」や「バレット」のような「伝説のジジイ」達も、原作でその存在や名前に触れられたことはなく、連載当初から考えていた設定ではないでしょうから、映画のために登場させた「後付け」キャラだと言えます。

しかし「元・海軍大将」や「元・ロジャー海賊団の船員」は「描いてこなかったけど同じ世界線に確実に存在していた」キャラクターであり、今も存命で生き残っていることに何ら矛盾も不自然性もないため、ファンとしては「ぜひ描いて欲しい補助線」と言えるわけです。

しかしウタについては、これらの後付けとは全く性質が異なります。

「幼馴染」などいない前提で描かれてきた主人公・ルフィの物語に、25年経ってから「実は幼馴染の女の子がいました」と付け加えるのは、「同じ世界線にずっと存在していたけどこれまで描いてこなかった部分」ではなく、「これまで存在していなかったけど、存在していないとは明言していないから追加しても矛盾しない」という屁理屈によって強引に生み出した都合のよい後付け設定でしかありません。

これはこれまで描いてきた物語やキャラクターを破壊する行為に等しく、たとえ表面上の整合性は取れるとしても、「その追加設定によって作品がさらに面白くなる」ことはまずない上、「損をするキャラクター」が続出するため悪手でしかありません。

「REDを機に考えたキャラクター」=「作者はこれまでいない前提で描いてきた」わけですから、それは「25年間のワンピースの物語においていなかった存在」なのです。いなかった存在を後付けで生み出して、こともあろうに物語の根幹となる「ルフィとシャンクスの関係性」の間にぶち込んでくるんですから、これに嫌悪感・拒否感を示すファンが多いのは当然でしょう。

しかも「幼馴染」という言葉を使うことも憚られるほど、ルフィとウタの関係性は希薄で空っぽで説得力がありません。

ただ「幼少期の一時期を一緒に過ごした」だけの関係でしかなく、両者の間にどれほどの友情関係があったのかを想像できるほどの材料もなければ、その友情関係に納得できるほどの描写もない。

本当にただ興行収入のためだけに「取ってつけた後付け設定」にしかないっていないのです。

たとえば「ルフィとウタが“新世界”のエレジアで初めて出会い、“シャンクスの娘”だと言われて驚き、双方がシャンクスとの思い出について語ることで仲良くなり、友情が芽生える」という設定でも、全く同じ展開が描けます。

おそらく作品の性質上、ウタのライブシーンに大きく尺を使う必要があるため、ルフィとウタを「初対面」にしてしまうと、友情の芽生えを丁寧に描く尺が足りないため、最初から仲の良い(クライマックスでウタを救う理由付けとなる)「幼馴染」設定にしたのでしょう。

そう邪推してしまうほど、ルフィとウタを「幼馴染」にしなければない理由がわかりませんでした。

こういうことを書くと、「お前映画観るの向いてないよ笑 そんな細かいこと気にしてないで、エンタメなんだからもっと気楽に見ろよ」といったコメントをされそうですが、アホかと。

エンタメだからこそ、観客が何も気にせず観られるように、ストーリーや世界観に自然と入り込めるように、設定を作り込まなければならないのです。ワンピースのように原作ファンの多い大ヒット作品であれば尚更です。

その作り込みがなされていない作品は、子ども向けだろうと大人向けだろうと「名作」にはなり得ません。(特典商法が取り入れられた昨今において)興行収入や興収ランキングは、作品の質を担保しません。

まぁ、先に述べたように、私は映画の中では好きにやっても別にいい(興味なければ観ずに切り捨てればいい)というタイプなので、そこまで目クジラを立ててウタの存在や設定を否定したいわけではありません。

ただ、原作第1話の完成度の高さを思うと、そこに泥を塗るような安易な後付け設定をなぜ許容できるのか不思議でならなかった、という感想です。

ルフィとシャンクス、3度目の接近

こんな内容のない空っぽの作品で、ルフィとシャンクスを目と鼻の先まで近づけるという世紀の愚行を通した制作陣には失望しか感じません。

ワンピースファンは、どうでもいいきっかけや薄っぺらい理由でルフィとシャンクスが接近する(「約束」が有耶無耶になるような)シーンなんて描いて欲しくないんですよ。

こんなシーンを描いてしまったら、原作でルフィが約束を果たしてシャンクスと再会するシーンの盛り上がりが冷めてしまうというのが、なぜわからないのでしょうか。

それも不自然なほど都合のいい「すれ違い」を描くだけで、リアリティも説得力も面白味も皆無。ただ制作側の「作意」によって「ルフィは起きない(起きさせない)からシャンクスが近くにいても大丈夫」という描き方をするのです。

ルフィが目の前で寝ていて、いつ起きるかわからない状況だというのに、呑気にウタと会話をし続けるシャンクス。ルフィが目を覚ましたらどうするつもりだったのでしょうか。シャンクスにとっては、もはやルフィとの約束などどうでもいいと思ってるのでしょうか。

元々はシャンクスがルフィに対して「約束」を課したというのに、ルフィがその約束を果たすために命懸けで海を進み、再会するときを心待ちにしているという中、シャンクスのほうからガンガン接近して来て、約束を破りかねない状況を作ってくることが信じられません。

ルフィがたまたま(都合よく)気絶していたから再会にはならない、というシーンを何度描くつもりなのか。

「頂上戦争」は、文字通りワンピースの世界における最上級の戦いだからこそ、その戦争にシャンクスが乱入してルフィを救うも、ルフィは気絶していてそのことに気づいていない、という描き方がギリギリ許容できるのです。

しかもあのシーンでは、シャンクスはルフィに背を向けたまま、成長したその姿を一目見ようとすることもなく、ルフィのとの約束を尊重するという描き方をしていました。そこが最高にカッコよくて、説得力もあった。

映画とはいえ、眠っているルフィのそばで悠長にウタと会話するシーンなど描いてしまったら、頂上戦争のあの名シーンにすら泥を塗ることになってしまいます。せめてもの配慮で麦わら帽子を顔に被せて隠し、表情は見ていないことにしていますが、どんな茶番なんだと。

制作陣は「頂上戦争編」を読んでいないんですかね?

あ、所詮は子供向けのアニメ映画だしフィクションだから、制作側の作意で都合よくキャラクターを眠らせたままにしておけばいいのか。

「目の前にいるしいつ起きるかもわからないけど、顔を見るわけにはいかないから帽子で隠し、その姿をしっかり確認しておきながら、ルフィは眠っているから“再会”を描いたわけではない」って、どんだけ都合のよいシーンなのでしょうか。

ラストシーンでは、ルフィ達の船とシャンクス達の船が別方向に進む様子が描かれるのですが、どう考えても視界に入る範囲なので、ルフィの船からシャンクスの船が見えてしまうはずなんですよね。

それが誰の船かまでは判別できないとしても、目に見える範囲にまでシャンクスを近づけるという描き方を許容してしまうことが信じられない。

さらにこれだけでは飽き足らず、原作の「ワノ国編」の終わりでも(明らかに映画とリンクさせることを意図して、映画の宣伝のためだけに)無意味にシャンクスをワノ国までやって来させるのです。

もうね、第1話で描いた2人の「約束」と「決意」にどんだけ泥を塗りまくるんだと。よくそんなシーンを描こうと思えるなと。

今回の映画を観て、「あぁ〜! もう少しでルフィとシャンクス会えたのに!! おしい!」とか、「この場でルフィが目を覚まして再会してほしかった!」と感じたファンは1人でもいるのでしょうか。

こんな形での両者の再会などファンなら絶対に求めていないはずですから、間違いなく不要な演出です。

すれ違いばかりでなかなか会えないもどかしさを楽しむラブコメ作品に路線変更でもしたのでしょうか。

幻想世界と現実世界に分かれて共闘する、という演出は100歩譲って許せたとしても、現実世界でシャンクスの目の前でルフィを眠らせるとか、シャンクス達の船がルフィの視界に入るといった演出は絶対にすべきではなかったと思います。

もはや制作者側がファンの気持ちをまるで理解していないとしか思えません。

3.導入と舞台設定の作りが雑すぎる

“麦わらの一味”はなぜエレジアにいる?

観客を作品の世界に入り込ませる上で、「導入」の作り方はとても重要です。導入に説得力がなければ、観客はその世界に入り込むことができません。

「FILM RED」を観て一番に感じたのが導入の作りの雑さ・いい加減さです。

具体的には、以下のような導入で始まります。

  • 海賊に襲われ、虐げられ、辛く苦しい日々を送っている人々が、ウタの歌声によって救われ、それを心の拠り所にしていることの説明。
  • いきなり「麦わらの一味」が満席のライブ会場の特等席でBBQを楽しむシーンへ飛び、ウソップ、チョッパー、ブルックなど一部のクルーがライブ開始を待ち侘びている様子の描写。
  • ルフィは肉に夢中でライブに興味はなさそう&そもそも誰のライブなのかもわかっていない様子。
  • その直後、ウタが「新時代」を歌い出してライブスタート。

まず私が疑問に思ったのは「“麦わらの一味”はなぜエレジアにいるのか」です。

何がきっかけで、誰の発案で、ウタのライブを観るためにエレジアに向かうことになったのか。誰が「世界の歌姫の初ライブ」という争奪戦必至の特等席チケットを取ったのか。なぜ一海賊団が世界の歌姫のライブの特等席を陣取れているのか。

開始数分で、大量の疑問が浮かんできます。

映画を見る前は、ルフィとウタが幼馴染であることをクルーに明かした上で、ルフィの提案(もしくはクルーの提案にルフィが同意した形)でウタのライブを観に行くことになったのだと思っていました。しかし実際は、ウタのライブに興奮しているのはクルー達だけで、ルフィはライブに大して興味がなく、幼馴染であるウタのライブであることも知らない様子です。

この描き方では、ルフィは「誰が出るのかもわからない、さして興味のないライブのためにエレジアに向かった」ことになってしまいます。果たして、「この船の進路はおれが決める!」というスタンスだったルフィが、自分の興味のない場所へ行くことを許容し、船の進路を変える決断をするでしょうか。(しかもエレジアは、「新世界」を逆走して“赤い土の大陸”を越えなければならない場所にあるのです。そんな大航海が必要なのに、特に理由もなくエレジアに向かうことを決めたルフィには違和感しかありません)

この時点で、冒頭からキャラ達に心がなく、都合よく会場に集められた操り人形にしか見えませんでした。

おそらく、ルフィ視点で経緯を補足すると、

  • 「世界の歌姫」であるウタの初ライブがエレジアであることを知ったウソップやチョッパーが「観に行こう!」と騒ぎ出す。
  • ルフィはウタが幼馴染のウタであることに気づいておらず、大して興味はない(ノリ気ではない)ものの、BBQで美味しい肉が食えるぞとでも釣られて「よし行こう」となった。

というようなことでしょう。

映画の導入としてあまりにも普通すぎるとは思いますが、しかしこうした経緯を描かず、何の説明もなく唐突にライブ会場の特等席に“麦わらの一味”が勢揃いしている様子から描かれたら、なんでルフィは興味のないライブに、船の進路を変えてまで向かう判断をしたのか?(その提案に乗ったのか?) なぜ海賊が世界的人気アーティストの初ライブの特等席のチケットを取れるのか? といった疑問が浮かんでしまい、冒頭から物語に入り込むことができないのです。

別の視点で言えば、初期の頃から「音楽家」を仲間に入れることにこだわり、「海賊は歌うもの」という考えを持っていたルフィが、音楽ライブに興味を示さないというのもよくわからない。

まぁルフィが知らないアーティストのライブに興味津々で大はしゃぎしたり、一緒に歌ったり踊ったりするのもそれはそれで違和感がありますが、だからこそ、「幼馴染のウタのライブだから観にきた」のような理由づけが必要だと思うわけです。

たとえば、

  • サニー号での航海中、ナミかロビンが新聞を読んでいて「世界の歌姫・ウタ」のライブが行われることを知る。
  • ブルックは「2年」の間に音楽家として活動していたためウタのことを知っており、その歌声が異次元の素晴らしさであることをクルー達に説明する。
  • それに興奮したウソップやチョッパーがライブを観に行きたいと言い出し、ルフィに提案する。(サンジ、ナミ、ロビンあたりも興味を持って同調する)
  • ルフィは新聞のウタの顔を観て、自分の幼馴染のウタであることに気づき、それをクルー達に話して、みんなが驚く。
  • ルフィは昔を懐かしんで回想し、久々にウタに会うために「よし行こう!」となる。(この描き方であれば、ルフィが音楽ライブに興味がないような描き方にはならないため、音楽家を仲間にすることにこだわっていた点とも矛盾しないし、ルフィとウタの関係性をクルー達が知ることもできる)
  • 急遽チケットを手配したため、あまりいい席は取れなかったが、ライブ開始前、もしくは開始後のどこかのタイミングでウタがルフィに気づき、仲間ごと特等席に移動させる。(しかしそれが「麦わらの一味」であることに観客が気づき、海賊嫌いのはずのウタが、海賊と友達だったと知ってザワつく)

といった展開のほうが、一味がエレジアに来た理由も、特等席を陣取れた理由の説明もできるし、音楽ライブに興奮するルフィも描くこともできるため、自然と物語に入り込むことができたはずです。

もちろん「いつも通りのベタすぎる展開で、過去の劇場版で散々描いてきたお決まりの展開だからつまらない」という面もあるので、上記シーンを冒頭から見せる構成が正解だと言うつもりはありません。

開始数分でいきなり「新時代」がかかり、ライブに突入して観客をヒートアップさせるという構成自体はよかったとも思います。

ただ、観客はルフィや“麦わらの一味”視点で(彼らに感情移入しながら)物語に入り込むわけですから、「なぜ彼ら(=自分達)がここにいるのか」については、どこかのタイミングできちんと説明しておかないと、物語に入り込みづらくなってしまいます。

たとえば「新時代」の歌唱後でもいいので、上記経緯があったことが伝わる描写を入れておけば、それだけで納得感や説得力が大きく変わったでしょう。

「新時代」は楽曲として普通に好きだったので、この曲が流れたときは素直にテンションが上がりましたが、そこへ至るまでの描写があまりにも空っぽすぎたため、“麦わらの一味”がライブを楽しんでいる様子にも一切感情移入できず、本当に「ただ絵が動いているだけ」にしか見えませんでした。

まぁ上記のような導入にすると、「新世界」から(“赤い土の大陸”を越えて)「前半の海」のエレジアへ向かうという(ありえない)点が際立ってしまうため、「全て端折って有耶無耶にする」という荒技に出たのでしょう。

この時点で、設定の強引さや作り込みの雑さ、いい加減さを感じてしまいます。

人物と会場のサイズ感がおかしい

もう一つ気になったのが、観客の数です。会場のサイズに対する観客のサイズで人数を概算すると、明らかに数十万、数百万規模の人間が集まっています。

「どんな規模のライブだよ笑」「いったい何十万人いんだよ笑」とツッコみたくなるレベルで、この時点でリアリティのなさが気になってしまうのですが、「世界一の歌姫」だからそれくらい集まって然るべき、という意図であえてその規模感にしているのであればまぁよしとしましょう。

しかし先に触れた通り、「エレジア」が“偉大なる航路”にあるとすれば、数十万〜数百万人の一般人が来ていること自体に無理があります。

こうした点から舞台設定が雑すぎる、いい加減すると感じてしまうわけですね。

「ウタの超大規模ライブに大量に集まった観客達」という「記号」を描いただけで、そこに制作側のこだわりや作り込みなどまるでなかったことがよくわかります。

おそらく、会場デザインを考える際や観客の作画を行う上で、「何人規模のライブなのか? なぜその規模のライブなのか? ワンピースの世界でその規模のライブは開催可能なのか?」など微塵も考えず、ただ「世界の歌姫のライブだから会場は超巨大にして、観客は超満員にしてその人気っぷりを表現しよう」という考えで作ったのでしょう。

キャラの言動や展開にリアリティがない

冒頭で「新時代」を歌い終えると、幼馴染のウタであることに気づいたルフィがいきなり舞台に乱入して、ウタに挨拶しにいきます。

この展開もひどい。「世界の歌姫」の初ライブで、何十万人いるんだとツッコみたくなるレベルの大観衆が集まっているというのに、開始早々、部外者が舞台に乱入しても誰一人騒ぎ出さず、文句も言わず、警備が止めに入ることもなく(というか警備自体存在せず)、ただただ静かに2人のやりとりを傍観するという選択をするのです。

あまりのリアリティのなさ、舞台描写のいい加減さに失笑するしかありません。

「子供向けアニメだから問題ない」というレベルではなく、誰がどう見ても明らかに不自然な描写をアリとして許容するのは、ただの怠慢か「ワンピースの映画はこの程度の作り込みで問題ない」と考えた(つまり観客を舐めている)かのいずれかです。

世界的人気アーティストのライブステージに部外者が立ち入って、誰一人騒がないなんてあり得ると思いますか?

ライブ中だというのに、観客ほったらかしでルフィと会話し、ハグをするウタ。ファンのために開催されたライブだというのに、ファンが「その場に存在しないもの」として描かれるのです。

このシーンに限らず、劇中はずっとライブが続いているはずなのに(そうじゃないと観客が会場に居続ける理由がありません)、ウタは自由に会場の内外を動き回り、“麦わらの一味”のいる離れ小島へ降りて談笑するなど、観客ほったらかしで勝手にライブを中断し、ありえないほど好き勝手な行動をとりまくります。

それも数十万〜数百万人の観客を集めた前代未聞の大人数ライブで、です。

「ライブが中断されてるのになんで誰一人文句言わないの?」「ウタが離席してる間、観客達は何をしてるの?」「この規模のライブを開催してるのに、警備員や会場スタッフ1人もいないの?」などツッコミどころしか出てこず、ライブ中の全てのやりとりに一切感情移入ができません。

こんな観客を舐めくさったライブをやっていたら、大ブーイングと「金返せ!!」コールが鳴り止まなくなるのは必至で、観客こそ舞台に上がり込んで暴動を起こし、大惨事になるでしょう。

これが「今世界で最も愛される歌姫」のライブなのです。

なんというリアリティのなさ、作り込みのいい加減さでしょう。

最低でも、

  • ルフィがウタに気づいて舞台に乱入
  • 観客が動揺し、怒り、騒ぎ出す
  • ウタが観客に向かって「みんな安心して!」と呼びかけ、ライブが中断したことを謝罪した上で、ルフィとの関係を説明する

という流れを描いていれば、まだフィクションにおける「リアリティ」を保持することができました。

サニーくんなんて存在価値のない(可愛いもの好きの客に媚びるためだけの)クソみたいなモブキャラに尺を使うくらいなら、こういう舞台設定のリアリティを描くことに尺を使うべきではないでしょうか。

制作期間が2年もあったとは到底思えないツッコミどころの多さ、作り込みの甘さ、完成度の低さです。

こういう話をすると、「子供向け作品にいい大人が何を細かいこと意見してんだwww」とか「子供向けアニメ映画にリアリティなんか求めんなwww」といったコメントが絶対にくるのですが、作り込みの甘さや適当さを「子供向けだから」という理由で正当化するのは明らかに筋違いです。

勝手に子供を舐めるなという話ですし、他の子供向け作品(ジブリやディズニー作品は言うまでもなく、ドラえもんやクレヨンしんちゃんなどもっと対象年齢の低い作品)ではもっときちんと作り込まれている事実があるからこそ、本作の作り込みの雑さ、いい加減さを指摘しているわけです。

ウタのライブパフォーマンスについて

キャラクターやストーリーには全く感情移入できませんでしたが、楽曲と歌声は素晴らしかったです。実際、私は後日TSUTAYAでウタの歌』をレンタルしました笑

(歌声の癖については好みが分かれるでしょうが、「あえて」そうしているのだと思うので、個性として受け入れるしかありません。ただ、個人的にAdoさんの裏声が苦手なので、「世界のつづき」のラストだけは裏声ではなく地声で歌ってほしかった…)

私が観た映画館は小規模で年季の入ったところだったため、音量や音響の迫力が物足りず、どうせ観るならもっといい映画館で観ればよかったなと思ったくらい、音楽は素晴らしかったです。

とはいえ、その名曲達の魅せ方として「FILM RED」のストーリー、構成、脚本がふさわしかったかというとそんなことはなく、むしろこれだけの名曲に恵まれているのに、よくこんな浅いストーリーで消費させたな…という感想のほうが強い。

せめてウタのキャラクターに1本筋が通っており、そこに共感や感情移入できるだけの「説得力」があれば、もっと音楽披露のパートにも深みが出て感動できただろうにと思います。

またダンスがあまりにもしょぼすぎて、楽曲の持つパワーとAdoさんの歌声の迫力を生かせておらず、めちゃめちゃ貧相なパフォーマンスに見えてしまったのも残念なポイントです。

特に「新時代」のサビの振り付けと演出が酷い。

数十万〜数百万人の観客を収容できるほどの超巨大会場だというのに、半径1m以内の範囲でパラパラを踊ってるレベルの小さな振り付けを、味気ない単色のCG背景に全身映すだけという無駄遣いっぷり。

楽曲のスケールやパワーを削ぐ要素にしかなっておらず、「なんじゃこの演出…笑」と失笑してしまいました。(以下の動画の4:50あたり)

https://youtu.be/iywcJZSzGko?t=290

※この動画は非公開となってしまったようです。

もちろん、

  • ファン達が真似して踊れるようにあえて簡単でシンプルな振り付けにした
  • ダンスを覚えてもらえるように、サビはあえて正面の全身アングルで映して背景の雑音をなくし、振り付けがわかりやすくした

という意図はわかるのですが、だからこそ、「はい! ここでみんな一緒に踊ってね〜!」と声をかけられているような気になってしまい、強い拒否感を抱いてしまう。

楽曲や歌声の持つパワーやライブ規模にそぐわない、見ている方が恥ずかしくなるレベルのチープな振り付けを入れるくらいなら、ただ全身全霊で歌う姿を描いた方が、「新時代」のパフォーマンスとしてはよっぽど力強いものになっただろうと思います。

そしてそのほうが「音楽」や「世界の歌姫」をテーマにした作品としても、ウタのキャラクターとしても、一本筋が通ったはずです。

ダンスを覚えて欲しいなら、「実は振り付けもあります」というテイで別途ダンスを覚える用の動画でもYouTubeにあげればいい話で、劇中でそんなしょうもない演出を入れる必要はないだろうと思ってしまう。ダンスを覚えるために劇場に何度も足を運んでもらおうとでも思ったのでしょうか。

このあたりも、SNSやYouTube、TikTokでの「踊ってみた動画」による拡散や話題性獲得を狙った、商業主義に囚われ、作品へのこだわりや作り込みよりも話題性ばかりを優先していることが透けて見える部分です。

「楽曲」も「歌声」も最上級のプロクオリティなのに、ウタ本人のダンスパフォーマンスだけが素人クオリティで浮いてるんですから台無しでしょう。

また、何の楽曲だったか忘れてしまいましたが(おそらく「ウタカタララバイ」)、歌唱中の映像がTVアニメのエンディングで流れるようなチープなもので、全然歌の魅力やライブの迫力が伝わってこなかったのも気になりました。

「世界の歌姫」が口パク丸出し

せっかく楽曲と歌声が素晴らしいのに、ウタの歌い方にリアリティがなく、全くウタが歌っているように見えない描き方をしているのも酷いと感じた点です。

「その表情と姿勢で、その高音と声量が出るわけないだろ…」と冷めてしまったのは私だけでしょうか。

「世界的人気アイドル」という設定なら、パフォーマンス重視の口パク作画でもまだ許容できますが、「世界の歌姫」という設定で、その「異次元」の歌声によって世界中の人々を救うという物語なのに、肝心の歌唱シーンがアイドルの口パクパフォーマンスよろしくの作画をしてしまっては説得力がなくなります。

「世界の歌姫」なら、きちんと「歌っている」ことが伝わってくる作画や演出にして欲しかった。せっかく自由な表現や演出ができるアニメ映画(フィクション)なんですから、最大限に感情移入した歌い方や、リアルを超える演出による歌唱表現をしてほしかった。そこの作画に力を入れ、こだわりを見せてほしかった。

そのほうがAdoさんの歌唱力もいっそう力強く、説得力を持って観客に届いたはずです。あの口パク全開パフォーマンスの作画では温度差がありすぎて、せっかくの楽曲と歌声が台無しでしょう。

誤解を与えないように伝えておくと、「口パクに見えない作画」というのは、口元を歌詞に合わせて動かす作画をしてほしいということではありません。(むしろ私は過剰に日本語をなぞった口の動きにする作画が苦手です)

そうではなく、高音や声量を出す部分は、きちんとその声が出ることに説得力が出るような表情や姿勢で、力や感情を込めて歌ってほしいということです。

わかりやすい例でいえば「アナ雪」でエルサが「Let It Go」を歌うシーンです。ディズニー映画と比較するのは酷ですし、そのクオリティを求めているわけでもありませんが、このシーンは何度見ても鳥肌が立ち、劇場で観たときはその迫力に圧倒されて自然と涙が出てきました。

それは、きちんとエルサが自分の感情を歌に込め、リアルに歌唱しているように全身を使って表現しているからです。エルサは「世界の歌姫」でも何でもありませんが、その素晴らしい歌声と表現力で観客に感動を与えてくれました。

しかしウタは、 Adoさんに歌ってもらった音源に合わせて口パクしながらチープなダンスを踊っているだけで、しかもライブ中に舞台を降りて数百万人の観客をほったらかしたままルフィや“麦わらの一味”と談笑したり、会場内外を移動しまくったりするのです。

どう好意的に捉えても「世界の歌姫」なんて呼べるはずがありません。

制作陣にとっての「世界の歌姫」って、「ただ歌がうまくてファンが多い人」という認識なんですかね。

「新時代」は、十分観客に感動を与えられるだけのパワーを持った楽曲だと思いますが、口パク丸出しの歌唱描写とチープな振り付けによって楽曲の持つ力を殺しているとさえ思いました。

最後に「世界のつづき」を歌ったシーンだけは、まだきちんと「歌っている」ことが伝わる描写でしたが、だからこそ、ライブシーンは全編通して「口パクアイドル」ではなく「世界の歌姫」として描いて欲しかったと思います。

そこがウタのアイデンティティであり、「FILM RED」のストーリーの筋なんですから。

「新時代」という言葉の違和感

またウタの作ろうとしている世界を「新時代」と呼ぶことも、言葉の意味として違和感があってしっくりきません。

「何でも思い通りになる幻想世界」というのは「別世界」であって「新時代」ではありません。「時代」の意味わかってるんですかね?

ゴールド・ロジャーが死に際に放った一言が「全世界の人々」を海へ駆り立て、「大海賊時代」を作ったように、「時代が変わる(新時代を作る)」というのは、文字通り何か全人類に影響を及ぼすようなエポックメイキングな出来事が起こり、それがきっかけとなってその後の世界や人々の生活、生き方が大きく変わる場合に使うものです。

しかしウタがやろうとしていることは、「幻想世界に永遠に閉じ込める」ことですから、それは「別世界(への精神の移住)」であって、「新時代(を作ること)」とは言えません。

「だからルフィが『そんなの新時代じゃねェ!!』と否定しているだろう!」と言う人もいるかもしれませんが、そういうことじゃないんです。

単純に、「一部の人間(の精神)を幻想世界に閉じ込める」ことは、そもそも「時代」という言葉で表現する事象ではないということです。つまり言葉の使い方が間違っている(少なくとも的を射ていない)。

ウタのキャラ設定が「言葉の意味もわからずに使っている頭の悪いイタいヤツ」で、「その言葉の使い方の間違いも含めて、ウタの未熟さやズレ具合を描いたのです」とでも言うつもりでしょうか。

映画の本筋のテーマとなる言葉(キーワード)の使い方が間違っていたら、共感できない、心に響かない、芯を食っていないと感じる人が多いのも当然です。

果たしてウタの掲げる「新時代」に、言葉の意味的にも内容的にも共感できた観客などいるのでしょうか。

「FILM RED」に感動し、大絶賛している方達に、ぜひこの「ストーリー」の何が心に響いたのか教えてほしいです。

ルフィの「新時代を作るためだ」という台詞

ちなみに、「なぜ海賊王になるのか」とウタから問われたルフィが「新時代を作るためだ」と答えたことに対して、「ルフィらしくない」とか「そんな重要なセリフを原作よりも前に映画で言わせるな」といった意見があるようです。

「ルフィらしくない」というのはその通りで、「新時代を作るため」なんて目的意識を持って「海賊王」を目指していたと考えると違和感しかありません。

ただFILM REDにおけるこのシーンについては、個人的には「売り言葉に買い言葉」といいますか、ウタがあまりにもズレた「新時代」を唱え続けるものだから(私は観ていてそこがずっと鬱陶しかった)、それを真っ向から否定するためにあえて同じ言葉を使って返した、と受け取ることもできたので、そこまで気にはならなかったです。

メタ的に言うと、「新時代」がキーワードの映画を作っている以上、クライマックスの決め台詞にそのキーワードを使うのは常套手段なので、だからこそ、そこに(原作に関わるような)深い意味を込めていないという見方もできます。

仮にウタの問いかけに対して、「新時代」というキーワードを使わずに「〜するためだ!」と返してしまうと、それこそ原作のネタバレになってしまい、反感を食らってしまうからです。

たとえば「ダチが腹いっぱいメシを食える世界をつくるためだ!」などと返していたら、それが(原作で明かされる予定だった)「答え」のようになってしまうでしょう。

だからルフィの答えとしては、唯一「映画におけるキーワード(新時代)」を使うことがだけが許される、と捉えることもできます。

もちろん、ルフィが使う言葉として不自然で違和感があったのは確かなので、もし今後、原作で「ルフィが海賊王を目指す理由は新時代を作るためだった」というタネ明かしに続くのだとしたらドン引きですが、映画内におけるセリフとしては、特に気にならなかったというのが正直なところです。

4.フラストレーションの溜まる構成と脚本

観客の熱量を奪い退屈にさせる「構成」

安易にウタを「シャンクスの娘」「ルフィの幼馴染」という立場にしたせいで、いちいち「過去」を描いて説明しなければ観客が理解できない設定や描写が多すぎて、ことあるごとにシーンが止まって回想に入り、説明を補足する構成になっています。

冒頭や中盤に長めの回想が一回挟まれるくらいならまだしも、ウタとルフィの思い出がピックアップされるたびに回想に入り、薄っぺらい「説明」を加える構成には退屈さしか感じませんでした。

それも、なぜか盛り上がってきたところや、キャラクターのボルテージが上がって決め台詞を発しそうな力のこもったタイミングで、その熱を奪うように回想シーンに挟んでくるのです。

そのせいでいちいち盛り下がり、フラストレーションが溜まってしまいました。

「せっかく盛り上がってきたのにここで回想入れるのかよ…」と何度思ったことか。

最初に「謎」を描きながら、キャラクター達の行動やセリフによって自然と明かされていく構成にすればいいのに、説明していなかったものが登場するたびにいちいち回想を挟むもんだから、とにかくテンポが悪くて退屈に感じるシーンが多すぎました。

なぜこんな構成にしたのか不思議でなりませんが、まぁ新キャラを登場させておきながら大半を歌唱シーンに使わなければならず、「人間」や「人間関係」を丁寧に描く尺がとれない縛りを考えると、こうならざるを得ないのかなとも思います。

気まずい「間」ばかり目立つ「脚本」

素晴らしい音楽と声優さん達の力量によって、感動シーンや盛り上がるシーンは一定の迫力を生み出せています。実際、その音楽と演技力にグッときたシーンもありました。

しかし如何せんキレや深みのないセリフが多いため、いまいち場が締まらずにフラストレーションが溜まるシーンが多い。

特にルフィとウタのやりとりが表面的でありきたりな会話ばかりなので、「お前ら本当に心を許しあった仲良しの幼馴染なのか?」と冷めてしまい、2人の関係性に全く感情移入ができませんでした。

「子供の頃に何度となく勝負をしていて、どっちが何勝したかにこだわるガキっぽさ」というやり尽くされて手垢まみれのやりとりを何度も差し込むセンスのなさに加え、「出た! 負け惜しみィ〜」というクソサムい決まり台詞とポーズを、ことあるごとにウタが披露してくるのも気色悪くて仕方ない。

しかもこれにルフィが何も言い返さないため、ものすごく気まずくて痛々しい「間」が生まれており、共感性羞恥心の強い私は見ていられませんでした。

これ、もし現実世界でマネする人がいたら周囲は苦笑いすることしかできず、その空気の地獄っぷりが容易に想像できてしまうレベルのスベり芸なのですが、なぜこんな違和感を生むだけの気色悪いセリフとポーズを「お決まり」にしたのでしょうか。。

シャンクスのセリフは、(親としてどうなのかというツッコミはあるにせよ)基本的にシャンクスらしさやカッコよさを描けていたと思います。しかしルフィのセリフがことごとく物足りず、記憶に残ってるセリフが一つもありません。(この辺りは一度観ただけでは具体的に思い出せなかったので、Amazonプライムで配信が始まったら確認して追記するかもしれません)

きちんと感情移入し、感動できる映画を作るには、脚本がいかに重要であるかを痛感した作品となりました。

国内興行収入197億について

「シャンクスの娘」や「ルフィの幼馴染」なんて釣りワードで興行収入を引き上げようとせず、音楽をテーマにした映画として丁寧に作り込んでいれば、他の興収100億越え作品や、興収トップ10の顔ぶれに並んでも恥ずかしくない映画になったかもしれないのに、と思います。

あれだけのプロモーションやパブリシティ(露出稼ぎ)と尾田先生描き下ろしによる特典を乱発しまくっていたら、「FILM UTA」でも170億を超え、ギリギリトップ10には入れたのではないでしょうか。

この内容のなさでトップ10(「もののけ姫」に迫る位置)に並んでしまうと、あまりのクオリティの差に、後の世代の人達が驚き、その違和感や不自然さに疑問を呈することになるのではと思ってしまいます。(余計なお世話ですが笑)

ちなみに先日「THE FIRST SLAM DUNK」を観に行ったのですが、その作り込みとこだわりの深さに感動し、何度も涙を流してしまいました。安易に他の作品と比較したくはないのですが、「興行収入100億を超える映画ってこういうことだよな…」と深く納得させられた次第です。

興収100億を超える作品で「FILM RED」ほど心に響かず、ツッコミどころばかりが浮かんできて、途中あくびを挟みながら、見終えた後に何の興奮も残らなかった映画はありません。

実際、スラムダンクについては多数の芸能人達がこぞってYouTubeに感想動画をあげたり、メディアを通して絶賛したりしている一方、FILM REDについては、信者と呼んで差し支えない考察系YouTuberや素人の感想動画しか出てきません。

芸能人で動画をあげているのは、宣伝役としてキャスティングされている霜降り明星やノンスタイルの井上さんくらいです。(他にいれば教えてください)

この現象1つとっても、今回の「FILM RED」という作品に対する「世間一般」の評価が表れているように思います。

つまり「ワンピース考察系YouTuber」は、ターゲット(メシの種)が「ワンピースファン」なので、とりあえず(自分の本心を隠してでも)絶賛することが正解という判断になりますし、公式からキャスティングされたタレント達も、立場的に絶賛せざるを得ないので、そうした動画をあげることになります。

しかし普通の芸能人やタレントは、広く一般大衆がターゲットとなりますから、その人達から信用を失うような「嘘」をつくことができません。「こいつの言葉は信用ならないな」「こいつの感性には共感できないな」と思われたら損でしかないので、FILM REDを「面白かった」「最高だった」「素晴らしかった」と絶賛する「嘘」をつくことができないのです。

かといって批判的な動画をあげるべきでもないし、あげても叩かれるだけなので、仮に観に行っていても公に感想は発信せず、静観を決め込む判断になるわけですね。

もちろん、本当に面白いと感じて、嘘のない言葉で絶賛できるのであれば何の問題もないのですが、そうした動画が見つからないのですから、そう感じた有名人はほとんどいなかったということでしょう。

興行収入197億円に達し、あの「もののけ姫」に次ぐ数字を叩き出したというのに、作品を絶賛する声が「信者と呼んで差し支えない界隈」と「宣伝に起用されたタレント陣」からしか聞こえてこないというのは異様な状況です。

このことから、197億という数字は、

  1. 「RED(三本傷の入ったロゴ)」「シャンクス(の娘)」「ルフィの幼馴染」といった宣伝文句を掲げて、大量プロモーションで露出を稼ぐことで、にわかファンや一見さんに(ある種の優良誤認を与えて)1回でもいいから劇場に足を運んでもらう。
  2. YouTube登録者数百万人を抱えるAdoさんを起用することで、彼女のファンを1回でもいいから劇場に足を運ばせる。
  3. 尾田先生描き下ろしの特典を乱発することで、特典が欲しい純粋な原作ファンや信者と呼んで差し支えない界隈、転売界隈を5回、10回と来場させる。

という主に3つの顧客層の獲得によって作られ、1、2の人達を薄く広く獲得しつつ(しかし大半は面白いとは感じずにリピーターにはなっていない)、3によって強引に興行収入を釣り上げただけ(=中身が評価されてリピーターを生んだ作品ではない)、という印象しかありません。

さて、これだけこき下ろしておいてなんですが、冒頭で述べた通り、私はアニメ映画は「パラレルワールド」として切り離したお祭り作品と受け取っているため、制作陣が「ワンピースで興行収入100億円を超える大ヒット映画を作る」という数字的な目標を掲げ、それを達成することを第一優先に考えたとすれば、このやり方は一つの「正解」だと思いますし、別に上記のやり方を卑怯だとも思いません。

だから「狙い通りの結果を出せてよかったですね」「数字だけは大ヒット映画を作れてよかったですね」という言葉を贈ることはできます。

しかしながら「世間一般」の人達は、上記のこと(映画の内容や作品のクオリティを評価された数字ではないこと)に気づいているため、「RED」によって「世間一般」のワンピース評価はむしろ下がったのではないかとさえ思います。

少なくとも、「シャンクス」という名前に惹かれて久々にワンピース映画を観に行った往年の読者やライト層の読者は、REDの影響でワンピースに見切りをつけ、原作離れを加速する結果になってもおかしくないと感じます。

それくらい「内容は評価できない」というのが世間一般の声ではないでしょうか。

「自分はワンピース信者ではないけど、REDは面白いと思ったし、特典がなくても2回以上観に行った」という方がいたら、ぜひ何を面白いと感じ、何を評価したのか教えていただきたいです。

おそらく音楽面であって、ストーリーやキャラクターの描き方に対する評価ではないのではないかと予想します。

となると、「それって『ワンピース映画』である必要あった?」と聞いてみたい。

この作品が好きな人は好きでいいのですが、なぜ「AdoのMV映画でしかない」といった声が多いのか、その理由にきちんと目を向けたほうが、「自分がなぜFILM REDが好きなのか」をより深く理解することができるだろうと思います。

5.まとめ

最後に、「FILM RED」の主要3キャラクターの「本質」が見える行動について要約しておきます。

  • ウタ:「世界の歌姫」なのに、歌の力ではなく「悪魔の実」の能力で世界中の人々を「別世界」へ連れ込もうとし、それを「新時代」と呼ぶも、誰からも賛同されることなく、抵抗されまくって失敗に終わった哀れな少女。
  • ルフィ:ライブ自体にさして興味もなく、誰のライブかもわからないのに、クルーに流されるまま「新世界」を逆走し、“赤い土の大陸”を越えてまで「エレジア」へ向かうことを許容した目的意識と主体性を失った船長。
  • シャンクス:「ウタのため」という理由で、わずか9歳の女の子を壊滅して炎上を続ける島へ置いていく、無責任極まりない「なんちゃって父親」。

この中で、唯一シャンクスの行動についてはまだ理解・納得できました。

現実世界の基準でわずか9歳の女の子を…と考えると最低な父親だと言いたくなるのもわかりますが、ゴードンへの厚い信頼があったことを前提に、シャンクス達の立場や状況を考えれば、「そうせざるを得ない(それが最適解である)」というのも理解できます。

というか、それ以外にウタを救う方法があるだろうかと考えてみても、私はアイデアが出てきませんでした。

エレジア崩壊の責任を「赤髪海賊団」が被らなければならない以上、ウタも一緒に連れて行くと、文字通り大犯罪者集団の一員となってしまい、歌手として成功する未来はほぼ失われ、海賊として生きるしかなくなってしまうからです。

それでも「シャンクス達と一緒にいたい(歌手の夢よりも、父親と一緒に生きる道を選びたい)」というウタの気持ちを尊重すべき、という意見もあるとは思いますが、わずか9歳の女の子を世界的大犯罪集団の船に乗せ、常に死と隣り合わせの人生に道連れにするよりも、罪は自分達が被り、ウタのことはゴードンに任せて「世界の歌姫」になって欲しいと願うシャンクスの判断はわからなくもありません。

なのでシャンクスについては、私の中ではまだ許容できる描き方でした。

しかしルフィとウタについてはまじで意味がわからなすぎて、一瞬たりとも感情移入できるシーンがありませんでした。

声優さんの迫力ある演技力によって、グッとくるシーンはあったのですが、それは声の力であって、物語やキャラクターの力ではありません。

だからワンピース映画としては「評価するに値しない」という結論になった次第です。

※3/8より「Amazonプライムビデオ」で「ONE PIECE FILM RED」の配信がスタートしました。

(アフィリエイト広告を利用しています)

※上記URLはAmazonアソシエイトのリンクを使用しています。

私の中で「ワンピース」は「史上最も好きな漫画」であり、まだ「前半の海」での評価の貯金が残っているからです。

ワンピースが大好きだったからこそ、この先改善されることを(いつまでも)期待して読み続けてしまっているわけです。その期待や熱量がゼロになったら読まなくなると思います。

実際「エッグヘッド編」以降、つまらなさが許容量を超えてきており、熱量は急速に冷めてきています。コミックスも104巻からついに購入をやめました。

ジャンプは購読して読み続けていますが、これもお金の無駄だと感じるようになったら卒業するかもしれません。

余計なお世話としか言いようがありません。

自分の人生の時間の使い方は自分で決めます。

あなたこそ、見ず知らずの他人の人生に意見するような無駄な行為に時間を使うのはやめたほうがいいのではないでしょうか?

他人の人生に口を出す前に、どうぞ自分の人生の心配をしてください。

論理が破綻しており、全く筋違いな言い分です。

プロの作家が商業作品として世に販売している時点で、それを購入した側が評価したり、感想を述べたりするのは当然に許された権利です。

私は読者(消費者)であって、漫画家ではありません。漫画を描きたいわけではなく、面白い漫画を読みたいからお金を払って購入している立場であり、購入した作品の内容に不満があるから、批判的な感想を述べているわけです。

あなたはお金を払って観に行った映画が酷い仕上がりでも、「自分に映画は作れないから文句は言えない」と考えて口をつぐむタイプですか?

購入したゲームがクソゲーでも、「自分では作れないから文句を言う資格はない」と考えるタイプですか?

お金を払って観に行った音楽ライブで、アーティストが音を外したり声が出てなかったり歌詞を間違えまくったりして全く感動できないパフォーマンスを披露しても、「自分のほうが歌が下手だから批判すべきじゃない」と思うのでしょうか?

飲食店でマズい料理を出されても、「自分で作れないんだから(店を開いてないんだから)文句を言う権利はない」とか、「文句を言えるように、まずは自分で作れるようになろう(店を出せるようになろう)」と思うのでしょうか?

市場に商品として投下されている時点で、それを購入した消費者からの評価は避けられません。作り手はそれを分かった上で、自らの意志で作り手側(買い手から評価される立場)を選んでいるのです。

一方の消費者は、自分ではできないからこそお金を払って人に任せているのであり、そこで期待したクオリティに達していなかった場合に、低評価を下したり、批判したりするのは当然に許された権利です。

「購入した商品について批判するためには、自分がその商品以上のクオリティのものを作れなければならない(文句を言うなら自分で作れ)」なんてあまりにも本末転倒で筋違いな暴論です。

頭の悪い人だとバレてしまうので、金輪際そうしたコメントはしない方がいいですよ。

尚、私がこのブログで批判しているのは、基本的に尾田先生(漫画家)ではなく、担当編集者です。編集者視点で、「なぜこの部分を直さないのか」「なぜこの内容でOKを出してしまうのか」という批判をしているのです。

その意味でも「文句言うなら、自分で描いてみては?」という主張は的外れですが、もし「文句言うならお前が編集者をしてみろ」と言われ、実際に依頼をしていただけるのであれば、私は喜んでお受けします。

そして、私が編集者になった後のワンピースがつまらなければ、当然批判も受けとめます。

その覚悟を持って(編集者を)批判していることをご理解いただければと思います。

心配しています。

このブログでは、基本的に尾田先生ではなく、担当編集者を批判するスタンスをとっており、尾田先生の健康や多忙を心配するコメントを過去に何度もしています。

なんなら長期休載に入ることや、連載ペースを落とすことを推奨している立場であり、そうした対応をせずに原作以外の仕事を次から次へと振りまくって尾田先生に負担をかけ、作品の劣化を放置し続ける編集者を批判しているのです。

なぜなら、1人の人間が週刊連載で何十年も面白い作品を(世間とのズレを生む事なく)描き続けることなど、そもそも不可能だからです。肉体的に困難なのはもちろん、作者1人の感覚で何百万人という読者の感覚とズレることなく、質の高い作品を描き続けることなどできるはずがないのです。

そのズレを正すのが編集者の役割であり、作品の質を維持するためには編集者の客観的視点が不可欠だというのに、全く機能していないことが露骨に作品に出てしまっており、にもかかわらず原作以外の大量の仕事を振って尾田先生からネームや作画の時間を奪い続け、作品の劣化に歯止めがきかない状況を進行させているため、その点を指摘して批判をしているわけです。

尾田先生の健康面の心配はしていますし、「作品への批判」と「健康面への心配」は両立するものです。

思いません。

「少年漫画」だから大人の観賞に耐え得るクオリティになっていなくて当然(あるいはそれでも問題ない)という考え方は、「少年」の読解力や感性を「(自称)大人」の勝手な思い込みと偏見で侮り、間接的に「少年漫画」を見下していることと変わりません。レッテルに囚われた思考停止人間の典型です。

少年を侮り、少年漫画を見下し、少年漫画のファンとして感想を述べ合う大人達を「異常」だと言ってのける人間のほうが、よっぽど異常だと私は思います。

読者アンケートの順位は相対的なものなので、「1位のままだからワンピースは劣化していない」という論理は成り立ちません。

ワンピースがどれだけつまらなくなっても、他の作品が抱えているファン数がワンピースよりも少なければ、ワンピースは永遠に1位のままです。「アンケート回答するファンの数=作品の絶対的な面白さ」ではありません。

ワンピースは「前半の海」で蓄積した熱狂的ファンがあまりにも多いので、ジャンプのアンケート回答においては、今度もほとんど1位をとり続けるでしょう。

私の中で「信者」の定義は、「何を描かれても無条件に絶賛し、全て肯定的に解釈して作者を持ち上げる読者」を指しています。

そのため「つまらない部分やおかしいと思う部分は多少あれど、普通に面白いし楽しめている」とか、「前半の海よりも面白さが失われたとは思うけど、新世界編も総じて楽しめている」といった読者は、私の言う「信者」には含まれません。


作者にとって有害かどうかは作者が決めることですので、本人に聞いてみてください。

ただ「つまらない」「くだらない」「ゴミ」「読む価値がない」「お金の無駄」「オワコン」「資源の無駄」といった捨て台詞で、作品を貶めるだけの(ほとんど誹謗中傷でしかない)批判は「有害」だと思いますが、きちんと作品を読み込んだ上で、「なぜつまらないのか」「何が問題なのか」を考え、「どうすれば改善されるのか」まで提示した上で行う「論理的な批判」は、(作者個人は求めていないにせよ)私は「有害」とは思いません。

というより、そうした批判を行う権利は誰にでもあるので、それが有害かどうか議論すること自体がナンセンスです。

それこそ「嫌なら読まなければいい」のです。

煽り体制が低いのは事実ですが、勘違いコメントや難癖コメントを放置すると、それを見た方に誤解を与えたり、場が荒れたりしやすく、早々に対処しておく必要があるため、説明なり反論なりをしています。

えてしてそういうコメントをする人ほど、放置するとそれを「肯定」と見做して、さらに誤解を強めて暴走しやすい傾向にあるからです。

たとえば「煽りコメントにだけ返信してねェw 効いてる効いてるww」とか「図星だから反論できねェんだw」とか「何も言い返せないから逃げやがったww 悔しかったら反論してみろやww」のような言い分です。(そうなると対処にさらに時間がかかるので、早めに処理しています)

また、私への直接的な質問系のコメントやうれしいお言葉にも、できるだけ早めに答えるようにしています。

記事への感想や建設的なコメントについては、読者さん同士でコメントやリアクションをしていただけているので、慌てて私がコメントせずにおまかせしている部分もあります。私がコメントするとそこでやりとりが終わってしまい、読者さん同士の会話が生まれづらくなったりもするので。

色々状況を観察しながら、よいコメント欄になるよう運営していきたいと思っています。

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こんにちわ
こんにちわ
22 日 前

コメント失礼します。
頭の中でモヤモヤしていたものを、ここまで言語化してくださりすっきりしました。
2年前までのワンピースでは、編集者が優秀で編集者の意向に沿って描いていたので、あそこまで完成度が高く物語が一つにまとまり面白くなっていたのではないかと考えています。
新世界編以降は尾田先生自身が強い影響力を持ち、自分の描きたいように描き、自分でも面白いものが描けるんだと自己中心的になってしまったのではないでしょうか。また、考察を当てられたことによっえ意地でも設定を変えたり、ディズニーやドラゴンボールなどの憧れに執拗に固執して真似てしまったのではないかと考えていますが、どうでしょうか?

匿名
匿名
1 ヶ月 前

REDは楽曲と歌とキャラデザを楽しむ。くらいでそこそこ楽しめます。
雑なストーリーでもそれなりに自分の中で補完して楽しめる方なのですが、今回はあまりに整合性がない…とストーリーに関してはずっと1人でモヤモヤしてました。
この記事で思ってた事の全てを書いていただきスッキリです(笑)
ありがとうございました。

匿名
匿名
1 ヶ月 前

正直時系列的にはワノ国編の途中・もしくは後っぽいのにビッグマムが生きてる、もしくはホールケーキアイランドにいるというデカすぎる矛盾があったせいで「ま!細かいことは気にせんでええか!!」みたいなノリで視聴してました笑

あと公式は「ネズキノコのお陰でああなっただけ!ウタは天使!」的なことを言ってますが、個人的には「ウタはあまり性格良くないんだろうな」と感じました

匿名
匿名
1 ヶ月 前

一応「能力者が死亡しても能力が解除されない」は原作での言及があるので問題ないかと
あとは殆ど同意見ですね

匿名
匿名
2 ヶ月 前

ストロングワールド、Zと違ってREDは
内容や展開が雑でONE PIECEの映画である
必要性が感じられなかった。
後世に語られる魅力よりも目の前の商業を
優先した哀れで滑稽でONE PIECEに
泥を塗るような駄作としか言いようがない。

匿名
匿名
2 ヶ月 前

興味深いコメントがあったのでお暇な方は読まれてみてください。悲痛です。
1年前のものなのでわりと生(なま)に近い声ですね。

https://onepiece.nabeotsu.com/egg-head/1059/#comment-1100

一部抜粋

>知り合いに腐の女子がいるが、昔から黒子のバスケの男に夢中だったり、流行りの女キャラに扮したりしているような奴が、REDだけ観に行ってウタになりきり「ワンピース面白い!」と語っているところを見て「そんなミーハーがワンピースの何を知ってるのか」と問いたくなったが、幸せそうだったし何より自分が哀れでそんなことは言えなかった。まぁ昔からのファンが偉いわけでもないし、自分はただ置いていかれただけなのかもしれん。

Last edited 2 ヶ月 前 by 匿名
無糖流
無糖流
3 ヶ月 前

既に言及された方がいるかもしれませんが

私はウタのビジュアルや一味の衣装でも「あっこれワンピースじゃない」と思いました。2次創作なら全然良いのですが。

黒田正人
黒田正人
3 ヶ月 前

管理人さんからしてZはどうでしか?
個人的にはスリラーバーク編ぐらいの面白さだ思ってますが

名無し
名無し
5 ヶ月 前

世間一般の人達はREDのストーリーを評価したから、興業収入が197億に到達したんですよ。いちゃもんをつけて批判したいだけのあなたには理解したくないみたいだけど。

匿名
匿名
5 ヶ月 前

「特典」のために、「映画」を観に行った人による売上が、「映画」の興行収入ランキングとして反映されてしまうことは、わかっていても納得できない。
確かに、特典商法自体はワンピースだけがやっていることではないし、AKB等の音楽業界等でも、もはや当たり前のように行われている。
しかし、「歴代〇位」等の見栄えの良い数字に囚われて、行き過ぎた特典商法が横行すると、純粋に曲や映画の品質の高さで記録を作った過去の作品が歴代ランキングから外れてしまったり、新作であっても、特典を付けた作品にランキング上負けてしまい、世に出ることなく埋もれてしまうおそれもある。
特典商法自体が合法的である以上、それ自体を悪だと断罪することはできない。しかし、個人的には、特典を付けた場合は、「CD売上枚数ランキング」や「映画興行収入ランキング」から外してほしいと思う。これは、単行本等の特典でも同様で、本来的に付録に過ぎないものが、購入者にとっては購買意欲の本質的部分となっている場合を全て含む。そうすれば、売上は、純粋な作品の品質によって左右されることになるし、クリエイター側が作品の質の向上に意欲的になると思う。結果的に日本の漫画界のレベルが向上する。短期的な利益の追求は、長期的な視点でみれば、凋落の始まりだと思う。

「RED」が「もののけ姫」、「ハウルの動く城」、「踊る大捜査線」等のリアルな社会現象を巻き起こした作品を興行収入で上回ってしまったこと(おそらく、「ハリーポッターと賢者の石」をも上回るであろう)は、「歴代興行収入ランキング」の価値を大きく下げたといえる。

今更Amazonで見てきた勢
今更Amazonで見てきた勢
5 ヶ月 前

主の内容は半分ぐらいしか見てない。それは、途中読んで99%同意見だった。
心の中の感じたことを言語化してくれたと思ったから逆に全部読まなくていいやってなったw
前評判のハードル(今、再上映が決定した時点)があがったというのもあるでしょうが、
単純に見終わった感想は面白くはない。
それでも、興行収入だとかやってるんだから、商売的には大成功。多くの一般人の心には響いたのでしょう。作品としては雰囲気だけのスッカスカ。本当に小田がなっとくしてやったのかな?
映画はもう見ないかな。
本編の終わり方を楽しみしてます。

ワンピースガチ勢
ワンピースガチ勢
6 ヶ月 前

ワノ国編とか色々考えてる中で完全に合わせるのは不可能なのではないか、と思い駄作になってしまったのかと思う。確かにつまらなかった。見なくてよかったの方が強かったかな。子供は黙せても大人は矛盾に騙されないと言うわかりやすい映画ではあった。もし大人が喜んで観たなら無能か、にわかのどちらかですね。好きなだけにコレジャナイ感が圧倒的に多くて、グラフィックも、世界観も近代的じゃなくてテレビで見るアニワンのグラフィックと、仲間との接点、ウタ1人敵にするのが間違いだった。ウタの配下位出してよかったと思う。そしてゾロやサンジ、ジンベエの強キャラに見せ場作ってやって欲しかった。また、リバイブ上映されるのでコメントしました。多分人入らないと思うし、次回の新作はつまらない前提で客足も半減するだろーなとは思う。

Last edited 6 ヶ月 前 by ワンピースガチ勢
豚眼鏡よしはる
豚眼鏡よしはる
6 ヶ月 前

今日Youtube見てたらウタの生誕祭中継やってて笑った
4んだキャラ働かせすぎじゃない?w

匿名
匿名
6 ヶ月 前

ワンピースを1巻から追いかけてるわけでもない、展開は知ってるけどアニメも漫画もたまにしか見ない自分でさえ違和感ありまくりの内容だった。
逆に聞きたい、原作1巻から追いかけてるファンはこの映画に満足したのかと。
この映画を否定する人間に対して「そんなに新時代が怖いのか(笑)」と煽る人間もいたが、制作者側の正気を疑うという意味でなら怖い、後は怒りと呆れ。

匿名
匿名
7 ヶ月 前

ものすごく今更なんですが、赤髪海賊団が現実世界にいた理由がわかる方いらっしゃいますか?

ウタの歌を聴いたらウタワールドに閉じ込められるのに赤髪海賊団は現実のウタを止めに来た、ということは彼らはウタの配信を聴いていなかったことになります。
赤髪海賊団にとってウタのライブは「罪人にさせないために泣く泣く手放した愛娘の待ちに待った晴れ舞台」という設定のはずなのに、誰一人として配信すらも聴いていないのはどういう理由なのでしょうか。

maro
maro
7 ヶ月 前

しかし実際は、幼少期こそシャンクスを恨んでいたものの、それは自分の勘違いで、実はシャンクスは自分を「世界の歌姫」にするために「エレジア崩壊」の全ての罪を背負い、何も言わずに悪者になる道を選んで自分を守ってくれていたという事実を、ライブ開催前の時点ですでに知っていたわけです。

これはすごく「???」を感じた

匿名
匿名
8 ヶ月 前

全文同意です。
ウタの行動全てに整合性が取れていない、だから感情移入が出来ない。まるで逆ハーレム夢小説の設定か?と思ってしまうような主人公の過去への無理矢理な食い込み方。過去設定まで捻じ曲げて登場させるほど魅力的なキャラとは到底思えず、ルフィやシャンクスとの絡みも寒い、イタい、馬鹿馬鹿しいの一言です。
語れることはこれだけ。
この映画に楽曲以外の価値はない。
わざわざ映画館で観て捨て金に泣かずに済んで良かった。

匿名
匿名
8 ヶ月 前

Q. なぜ映画にadoを起用したか?
A. ado → 逆から読む → oda

こんな適当なウソでも者たちは「尾田スゲェ!」とか言うのかな
すでにどっかのYoutuberが言ってそうなネタだけど。

匿名DO
匿名DO
8 ヶ月 前

次は海賊無双にもウタが登場するらしい。どんだけ擦ってんだと

匿名さん
匿名さん
9 ヶ月 前

なべおつさんに質問攻めしてる奴アフィか何かか?質問の内容自体もズレてるし、まず自分の意見から語れよ。相手にばかり答えを求めんな

匿名
匿名
9 ヶ月 前

尾田と谷口はマジでワンピースファン全員に謝罪すべきだろ

匿名
匿名
9 ヶ月 前

こんばんは。映画も終了したと言うのに未だウタに関する展開をあちこちで行なっていることのついてなべおつさんはどう思いますか?

匿名
匿名
9 ヶ月 前

今作の歌唱を担当したAdoも相当なイカれ女でびっくりした。特に紅白で生出演せずに音源提供とか舐めすぎだろと

匿名
匿名
9 ヶ月 前

結構前にオマツリ男爵がどうこうって炎上したことあったけど、今の本誌とこの映画の方がマジでオマツリよりよっぽどひどいんだけど

Last edited 9 ヶ月 前 by 匿名
匿名
匿名
9 ヶ月 前

こんにちは。なべおつさんは映画連動アニメはご覧になってないのですか?感想記事がなかったので気になりました

匿名
匿名
9 ヶ月 前

自分も東映アニメーションに対して語らせてください。
セル画の枚数に上限を設けて(経費削減)、原作に追い付かないよう引き伸ばしつつ(時間稼ぎ)、作画より納期に間に合うように(手抜きや外注)してきたツケが来ていると感じます。

本来アニメーターがあんな絵で満足する訳が無いし、現場はかなり酷かったことでしょう。
勿論それを差し引いても見れたもんじゃないのはそうなんですが、グッズやタイアップに目が眩み毎週放送させ、とにかく稼ぎたかった偉い人達のせいだと思うんですよ。

絵が原作に寄ってるだけで感心するほどの水準の低さでしたが、前半の海やFILMシリーズ以前の映画で作画監督を勤めた方など、しっかり描ける人もいたのが残念でなりません。
小泉昇さんという方で、止めもアクションも綺麗に描かれていました。他のアニメーターが参考にする作画指示書なんかも作ってた人です。アニメの設定資料集1~3がメルカリとかに出回ってますが、中身はこの方の絵です。凄く原作愛を感じる内容でした。
尾田先生がアニメのチョッパーの可愛さに気付いて読者に媚び始めたのは、この方の作画が良かったからとも言われています。
しかし彼は過労で作画を退いたようです。

擁護したい訳ではなく、そういう人員をも使い潰す方針でやってきた『商売人』達のせいで原作の良さやクオリティが殺されているのがとても悔しいのです。
今はアクションシーンを不自然に盛って作画凄いって言わせたいんでしょうが、これは現場の方は失笑しておられると思いますね。
1クール方式に変えられないのは、まぁ古い慣習から抜け出せない老害や偉い人が多いからでしょう。また、アニメの最長話数やギネス、キリ番とかしょうもないこだわりがありそうです。
映画だけ綺麗なのが情けなくて、悲しいです。

TKMI
TKMI
9 ヶ月 前

先ほど約8年振りにアニメワンピースを見てきたのでコメントさせて下さい。感想は「酷過ぎて苦笑い。他人に目撃されたら恥ずかしさのあまり、チャンネルを変えてしまうレベル」です。

まず、OPについてです。曲としてはワンピースらしい曲となっていますが、「ワノ国」「vsカイドウ」「共闘」といった要素が弱いため、薄っぺらい曲という印象を持ちました。また、OPの作画は「中の下」、構成は「下の下」となっていて、特に構成は酷いもんで映像から緊張感が全く伝わってきません。原作と同様ごちゃごちゃしていて非常に見苦しく、OP後半に至っては意味不明でした。OPで2分半使いました。

ここから本編ですが、アニワンは前回のあらすじにたっぷり2分半を使う贅沢な時間の使い方をしております。気になった点は「ゴムゴムの実を食べた云々」といったナレーションが無かったことです。あれ?なんで亡くなったのかな?(すっとぼけ)

そしてルフィのゆっくりボイスでタイトルコール。Aパート残り10分は主にキッド&ローvsビッグマムが描かれてましたが、ビッグマムは腹部にキッドのビームを8分ほど受け続けながらソルソルの能力を使用。寿命を抜き取られそうになるモブにスポットライトを当て「これでも倒せないのかぁ!ビッグマムー!」「ぎゃー!死にたくなーい!」「お頭ァァ!!」「キャプテーン!!」と一人一人言わせる始末。モブ役の声優さんにとっては良い事ですが、あまりにも引き伸ばしが露骨過ぎる。その後ローが参戦。R・ROOM凪を使う直前にコラソンとの過去回想を挿入し時間を稼ぐ。たっぷり時間を使ってビッグマムに能力を使用。この間キッドは上空浮遊のままビームを打ち続け、ビッグマムは鬼ヶ島から落下。モモノスケの「えええええ〜〜!?ビッグマム〜〜〜!!??」でAパート終了。

Bパートは集中を切らしてまともに見ることができませんでしたが、マムの「ロジャー、お前のせいだぞ(セリフ忘れた)」の後にロジャーの処刑の場面&初代OP映像の一部が挿入された後、WCI編から今回放送分までのダイジェストシーンを豪快に追加し、がっつり尺を稼ぐ事に成功。その後、ビッグマムがゆっくりボイスで火口へとゆっくり落下し無音で爆発(なんで爆発したのかは要相談)。ナレーションがゆっくりボイスで勝者ロー&キッドを讃えた後、横乳を見せびらかすヤマトと全然口が動かないのにぺちゃくちゃ喋るモモノスケの会話になってない会話で終了。

こんな感じで露骨な引き伸ばしとゆっくりボイスで時間稼ぎしつつ、豪快な過去回想シーンやダイジェストシーンの追加で尺を稼ぐ構成で、何とか30分間持たせる東映アニメの苦労を垣間見る事ができ、クオリティとしては非常に低く爽快感など全くない事から、アニワンはワノ国編で打ち切って原作が終了するまでアニメ化を控えるべきだと強く思いました。

TKMI
TKMI
9 ヶ月 前

個人的にRED公開を境にONE PIECEは下り坂に入り、それが今も継続している気がします。絶頂期は2022年8月6日公開から20日間で100億円突破、同年9月1日のApple Music「トップ100:グローバル」で1位を獲得したところか。RED陣営はこの勢いのまま特典商法と年末年始の音楽番組にウタを出演させ、更に観客動員数を増やし日本アカデミー賞の優秀アニメーション作品賞を狙っていたのだろう。
だが残念ながら2023年に入り下り坂に突入。まずは開発に5年をかけたONE PIECE ODYSSEYは何とも言えない中途半端なクオリティで全く話題に挙がらず。そんなタイミングで広域強盗事件の主犯格が「ルフィ」と名乗ったため関係のない所でネガキャンを受ける。そして今年1月末にゴリゴリの特典商法映画REDが公開終了。国内興行収入は197億円で結果は残したものの意識していたであろう「鬼滅の刃無限列車編」にはダブルスコアを付けられた結果に。ならばと3月8日アマプラでRED独占配信が開始するもレビューは散々な有様(本日時点でレビュー数2352で☆3)。そして運命の3月10日、日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞したのは2022年12月3日公開のTHE FIRST SLUM DUNK。なんと同じ東映アニメーションの作品である。東映アニメーション側はウハウハだろうが、この結果はRED陣営は衝撃を受けただろう。そして映画に力を入れ過ぎた結果、肝心の原作コミックの売上は右肩下がりが続き、ジャンプ本紙からは麦わらの一味が消えることに。更に逆境は続く。REDが公開終了してもなおワンピ陣営がゴリ推しを続けるウタとキャラが被るキャラクターとアニメが登場。その名は推しの子の「アイ」。なんと推しの子のOP曲「アイドル」が世界中で大ヒット。Billboard Global Excl. U.S. top 10で日本語楽曲としては史上初1位獲得。Spotifyの「バイラルトップ50-グローバル」で18位獲得。ストリーミングでは日本史上最速となる5周で1億回再生を突破、史上最速となる9周で2億回再生超えを突破(現時点でウタの「新時代」は1.3億回生)。とまぁ、ウタが一気にオワコン化する事態でワンピ陣営はもうボロボロ。そして弱り目に祟り目とはまさにこの事か、6月中旬作者尾田栄一郎の乱視手術による一ヶ月の長期休載。こんな下り坂の中、Netflixで実写版ONE PIECEの放送が決定。ティザーPVを見る限り前途多難そうである。これは小話になるが、ナツコミ2023年のONE PIECEのステッカーは気色悪い絵柄で不評。早いもので2023年も残り半年。ONE PIECEはこの下り坂から脱却できるか。個人的には公開一周年記念でウタのゴリ推しの再開、尾田栄一郎復帰後のイキリコメント連発ブースト、本誌ではルフィ達と関係のない所で勝手に謎開示(匂わせ付き)があると思われる。

匿名ク◯野郎
匿名ク◯野郎
9 ヶ月 前

映画も終わったってのに未だにウタのグッズ展開やめないのはマジで何なんだろうな

匿名DO
匿名DO
10 ヶ月 前

そもそも映画もアニメも尾田の監修に頼るんじゃなくてアニメスタッフにもっと原作(前半の海)の理解を深めてもらってスタッフの選出も原作の理解度を前提にして欲しいと思うわ。尾田の監修がないと良い映画を作れない時点でアニメ会社のレベルの低さが伺える

映画はパラレル
映画はパラレル
10 ヶ月 前

シャンクスの娘という設定もルフィの幼馴染みという設定も
ウタウタの実ででっち上げた物ではないか?
もっと言えば、このFILM REDという作品自体がウタウタの実の能力で作られた世界。本編と噛み合わない点が多すぎた。
 所詮、ウタはワンピース界の使い捨てヒロインじゃけぇ

匿名
匿名
10 ヶ月 前

初めまして。FILM RED以降のシャンクスの扱いや最近のワンピースの展開に不満があり、検索しているうちにこちらのブログに辿り着きました。

昔のシャンクスは強くて大らかで自由なカッコいい大人って感じで好きなキャラの1人だったのに、FILM REDで育ての親としても船長としても見立ての甘い判断をする、愛娘(笑)1人も守りきれないような人物だと描写され、とてもガッカリしました。
それがFILM REDの中だけの設定としてならまだ許せましたが、どうも尾田先生の中ではFILM REDは正史扱いらしく、ファンもそれを喜んでいるのが納得行きません。
それ以降もシャンクスは本誌でも格下のキッドを必要以上にボコボコにしたり、世界政府の狗として暗躍してる?ぽかったり、実はワンピースを今の今まで狙ってなかったりと、昔とキャラがあまりに違いすぎる気がして嫌になってきました。

話はズレるかもしれませんが最近のバギーとシャンクスの関係も必要以上に湿っぽくて不快です。シャンクスもバギーもあんなに湿っぽい性格のキャラでしたっけ?
2年後以降のワンピースはどのキャラも性格や考え方が昔と違い過ぎておかしくなってると思います。

匿名
匿名
10 ヶ月 前

そういえばなべおつさんって他の人が触れている副音声の内容ご存知だったりします?

匿名
匿名
10 ヶ月 前

最近やっと見ました
あまりのつまらなさに唖然…
なんでこれが200億!?ってのが素直な感想です

匿名
匿名
10 ヶ月 前

今度はワンピースがハリウッドで実写化するそうですね。ワンピース本編とこの映画が酷い上に、ドラゴンボールで1度失態犯してるのに何で実写化に手を出すのか、もうこれが謎でしかねえよ。Twitterで流れてきたメリーの画像見たけどなんだあれ恐ろしいわ

Last edited 10 ヶ月 前 by 匿名
匿名
匿名
10 ヶ月 前

映画に関係するか分からんけどこの映画で歌を担当したAdo氏が紅白に音声提供して出演をし、本人は会場に顔を出さなかったそうですが、なべおつさんはそれご存知ですか?

匿名
匿名
10 ヶ月 前

何度もコメントしてすみません。シャンクスについてどうしてもモヤモヤしました。

ウタが「レッスンを受けるよりシャンクスと居たい」と言った時には受け入れたのにエレジアが滅んだら置いていったことから考えると、シャンクスはウタに「海賊は嫌われ者で、世界一の歌手と赤髪海賊団の音楽家はどちらか片方しか選べない」ことを伝えていなかったのではないかと思います。もし伝えていたとしたら「世界一の歌手になれなかったとしても赤髪海賊団の音楽家でいたい」というウタの意思を尊重したはずだと思うからです。
ということは、ウタは覚悟と信念を持って海賊をしていたわけではなく「父親の船で海賊ごっこをさせてもらっていた」状態だったということになります。そして、シャンクスは「海賊として厳しくも自由な海を生きると決めた女」ではなく「ただ船に乗せているだけの愛娘」に赤髪海賊団の音楽家を名乗らせていたのです。

覚悟もない子供に船員を名乗らせ、そのくせいざその子供に悪名がつきそうになったら置いて行く。要するにシャンクスの方もウタを船員として扱う覚悟がなかったわけです。船長としてこんなに無責任な行動があるでしょうか。

娘の存在自体が後付けなので、父親としてどんなに駄目でもそこはあまり気になりません。ですが、シャンクスが船長として無責任ならそれは「ワンピース」の崩壊です。

長々と語ってしまってすみません。まとめると、「シャンクスは映画内にあったエレジアのシーンより前にウタに海賊として生きる覚悟を問うべきだった。それができないシャンクスは船長として無責任でキャラ崩壊している」というのが私の意見です。

匿名
匿名
10 ヶ月 前

私的にはエースもサボも1話との噛み合わせがとても悪く感じ、受け入れられない人間なのですが、ウタは彼らと比較にならないレベルで酷いと感じました。なべおつさんはどう思っていますか?

匿名
匿名
10 ヶ月 前

仮にこの映画がパラレルでウタの存在自体は正史だとしてもウタの性格の悪さは連動アニメでメチャクチャ出てきてるからこんなのが本編に関わるとか冗談じゃないってなる

匿名
匿名
11 ヶ月 前

ストーリーは薄っぺら、歌も技術はあるのでしょうが感情表現はお粗末なもので全く共感できるところのない映画でした。
個人的に一番納得がいかないのは、ウタが何も失わずに勝ち逃げしたラストです。計画は中止したとはいえ「みんなを助けるために歌う」は達成したし「シャンクスに会って謝る」も「赤髪海賊団の音楽家を名乗る」もクリア、「辛い人生から逃げる」も叶った上に歌声は世界中で人気のまま。悪人ではないとはいえ確かに悪役だったはずなのに、何故ウタは何の対価も払わずにやりたいことをほぼ全て叶えられたのでしょうか。

匿名
匿名
11 ヶ月 前

副音声か何かで尾田が発した「楽しむ努力をしろ」発言マジでヤバい。尾田のわがままぶりがよく伝わってくる。編集が新世界編から放置してきた結果だな

トク名
トク名
11 ヶ月 前

実写版ONE PIECEについて尾田氏からのコメント
https://news.yahoo.co.jp/articles/e53b63188c68414627004ae9076127c5909ce41f

まーたハードルを上げる発言してて草なんだが

ワンピース信者
ワンピース信者
11 ヶ月 前

最近Amazonプライムで見たけど、映画観に行かなくて良かったと思った。
感想も主とほぼ同じで、やはり1番気に食わなかったのが、幼馴染の設定。もちろんポットですぎて感情移入もできず、幼馴染感を出すための「負け惜しみ〜」だの、チキンレースだのは正直みてて寒かったし、最後死ぬ時も全く感動しなかった。
Zの時は、ゼファーが死ぬ時感動したけど、それはルフィ海賊団、z、海軍、クザンと登場キャラも少なく、ストーリーに時間がかけれたからだと思う。あと単純に戦闘も断然こっちの方が面白い。トットムジカってなんやねん、、、戦闘大味すぎでしょ、、
歌のせいで尺がとれず微妙なストーリーになるぐらいなら、いっその事ミュージカル映画にして、ルフィ達も「FAMILY」とか歌う映画でも良かったと思うレベルでした。

匿名
匿名
11 ヶ月 前

またウタ関連のグッズができるみたいだけどマジで公式懲りてねえのな

匿名
匿名
11 ヶ月 前

特典商法なしで100億行ったコナン見るとこの映画の無様ぶりが余計際立つの面白すぎ

匿名
匿名
11 ヶ月 前

コナン映画が100億突破して「入場特典無し」がトレンド入りしてるの笑う
どうでも良いステッカーとかじゃなく気合入れまくって転売でプラスまで出る入場特典付けてたからなぁRED

匿名
匿名
11 ヶ月 前

新世界、新時代、ニューワールド、この辺りの新○○というワードを、この映画が始まってから一斉に聞く様になりました。発信する側が流行らせたいワードなのでしょうか。
この映画はそれを流行らせる為だけに作られたんじゃないかと思うほどつまらないものでした。
また、新時代と言う歌を色々なところで耳にし、私はその音が苦手だった。全く良いと思わないし、感動もしない。歌唱力や表現力があって才能のある方なのは間違いないのですが。自分には合わないんだなと思いました(そこかしこで聞こえてくるので辛い)
しかし、映画を見る事で物語を知ったら好きになれるかもしれない、苦手にはならないかもしれないと思い、家族がアマプラで見ている時に一緒に見ました。
…が、全くダメでした。むしろ嫌いになる。共感できなかったし、感情移入もできなかった。
大迷惑な事をする程大変な目に、ウタは逢ったんだろうと予想して見るじゃないですか、答えはとってつけた様な悲劇。こう言うところはお涙頂戴、ウタ可哀想にと思う所なんでしょうが失笑するだけだった。
海賊嫌いって言ってるのに海賊がウタのファンなのは何故?という疑問。
そしてウタは表現者として無責任でした。力があり認められているのに自分の事で他人を巻き込むし夢の中に逃げてばかり。逃げてばかりの大人に育てられたんだから仕方ないのかもしれないですが。
ラストは死んでると思ってました。これほど大迷惑かけたんだから死んでも良かったのでは?
物語の基礎はNとかVとか描いて感情を揺さ振るのが大事だそうですが、横這い。
ファンタジーの中に入りたいのに疑問を持ち現実に引き戻され感情移入できない為に誰かを応援もできず。
映画を見ていてイラついた原因が言語化されていてとてもスッキリしました。
製作者側の思惑が透けて見えるのに腹が立ちます。
戦闘シーンのアニメーターさんや声優さんは凄いと思います!

匿名
匿名
11 ヶ月 前

そのとおりです。
見るに値しませんでした。

匿名
匿名
11 ヶ月 前

ウタの言動周りだよなーやっぱ
海賊嫌いキャラで売れてるから路線変更できない板挟みとか映画内で無いし
というかそうなんですよって説明されてもじゃあそんな歌手に海賊もファンが付きまくってるのおかしくね?って結局統合取れないし

匿名
匿名
11 ヶ月 前

REDの作品自体もその信者もやばいがそれに漬け込んでAdo氏を叩いてる連中も相当やばい

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